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「伝道」と聞いてドキッとしてしまう方へ(筆者もです……)

末日聖徒イエス・キリスト教会の会員には、3つの使命があります。1つは死者の贖い、1つは聖徒の完成、そして最後の1つは「福音を述べ伝える」です。

筆者はイエス・キリストを信じており、その教えに従い、主の道を歩むことでこの世では平安と守りがあり、永遠の世では救いを得られると信じています。だからこそ、多くの方に、このイエス・キリストの福音を知ってほしいという望みがあります。

現在、世界的に見ると末日聖徒イエス・キリスト教会の会員は目覚ましい発展を遂げており、多くの福音を必要とする方々にその教えを述べ伝え、たくさんの方が教会の門を叩き、改宗してクリスチャンになっています。

しかし、しかし……、この日本では、全くと言っていいほど教会の発展はなく、改宗してくださる方がいません。日本人のほとんどの方はキリスト教に興味がなく、宗教を信じようという方はほとんどいないのが現状です。

そんな日本で、福音を述べ伝えようとすると、大抵うまくいきません。

それは当然です、福音を必要としていないのですから。しかし、中にはキリストの福音を求めておられたり、人生に対して疑問をいだいておられる方がいらっしゃって、それらの方々にキリストの教えをお伝えする機会が極々稀にあります。そして、福音の教えを受け入れてくださり、教会に改宗してくださる方が、わずかながらおられます。

とはいえ、一般の会員がそんな厳しい日本の状況で「伝道」のことを考えると体がこわばり、「伝道」という言葉を聞いただけでドキッとしてしまうのではないでしょうか(少なくとも、筆者はそうです……)。

しかし、今回はこのテーマに挑んでみようと思います。伝道、福音を述べ伝える、この世界一伝道が困難な日本で、どのように福音を述べ伝えるのか、それについて考えてみたいと思います。


自分の好きなこと、得意なことで伝道する

これまで、日本では伝道について様々な取り組みがなされてきましたが、どれもことごとくうまくいっていません。友だちや知り合いの名前を提出したり、日付を区切ってどう働きかけられるかを決めたり、ひどいものになるとほとんど教会や福音のことを知らない方に“とりあえず”バプテスマ(改宗のための儀式)を受けさせてしまったりした時期があったという話も聞いたことがあります。

私たちは伝道というと、「福音を直接分かち合う」というイメージが浮かびます。で、ちょっとでも相手が興味がある素振りが見えたら(大部分は社交辞令だが)ここぞとばかりに聞かれていないことまで巻き仕立てて煙たがられ、せっかくの伝道の機会を失ってしまうのです。

こんな状況で、どう伝道すればいいのでしょうか。

そのことに対して、何年か前、十二使徒のスティーブンソン長老(だったと思います)が来日され、日本の教会員に向けて語った言葉の中に、伝道について述べたものがありました。

その言葉をまとめると、「伝道の方法は1つではない」ということでした。
そして、「自分が苦手な方法、やりたくない方法で伝道するのではなく、自分が好きなこと、得意なことを使って伝道できます、レストランに行ってメニュー表を見て好きなものを注文するように、自分が好きな方法で伝道できる」ということをおっしゃっていました。

筆者はその話がずっと心に残っており、筆者が福音を述べ伝える業に取り組む際の指針にしています。

じつは、このnoteを始めたのも、オンラインで、「文章を書く」という自分が好きなことを使って福音を述べ伝えたい、一人でも福音に興味を持ってくださる方が現れてくれたら、そんな理由からでした。

そうなのです、得意なことで伝道すればいいのです。

何としても改宗させなきゃ! なんて強迫観念を感じなくても、いいのです。楽しく、無理なく、急がず、自分のペースと方法で少しずつ、一歩ずつ福音を述べ伝えればいいのです。

何度も引用している聖句ですが、ここでも引用したいと思います。

それゆえ,善を行うことに疲れ果ててはならない。あなたがたは一つの大いなる業の基を据えつつあるからである。そして,小さなことから大いなることが生じるのである。

教義と聖約64章33節

善を行うことに疲れることはあっても、「疲れ果て」なくていいのです。
日本での主の業の基を据えているのです。そして、小さなことから、大いなることが生じると書かれてあるとおりに、日本に起こると、筆者は心から信じています。

世の中で目覚ましい成功を収めなくても伝道はできる!

教会で、よく次のようなことを聞きました。

「社会的に成功し、世の中で強い影響力を持てば、伝道がうまくいく、あの人すごい人が行ってる教会ってどんなところなのかと興味を持ってもらえる」

これ、いま筆者はこのことに甚だ大きな疑問を感じています。そんな虫のいい話はないし、社会で成功することと伝道は別の話だと思います。幸運にも、そうした経緯で教会に興味を持ってくれる方もいらっしゃるかもしれませんが、それが目的で社会で成功しようと思うのは、順番が逆だろうと。

末日聖徒は善良な一市民になり、社会で貢献することが推奨されていますが、それは伝道のためというよりも、社会のため、世の中の人々のためです。困っている人を助けたいから助け、親切にするのであって、伝道につなげるために助けの手を差し伸べ、親切にするのではなないと思います。そんな条件付きの愛や親切は非常に失礼だと思います。

社会で成功して大きな影響力を持った後、まるで投網で獲物を獲るように伝道するという考えは、意味がありません。

イエス・キリストは、一人ひとりの個人を大切にされ、目を向けてくださっています。同じように、伝道、改宗も一人ひとり、その人個人個人を大切にして勧めていくものだと思います。

それには、社会的地位も、世の中の影響力も必要ありません。ただ、説得と寛容と、温厚と柔和と、偽りのない愛と優しさ、純粋な知識(教義と聖約121章41節)があればいいのだと思います。

「愛を示すこと」も伝道である!

福音を聞いてくださる方、受け入れてくださる方は、そうしたことを受け入れてくださる心の準備がある方です。

興味がない、求めていない、拒否している人にいくら教えを伝えても、必要としていないのですから、聞いてくれるわけがありません。現在の日本では、ほとんどの人が、宗教を求めていません。
そんな人に、どのように伝道すればいいのでしょうか。伝道できるのでしょうか。

同じような状況で福音を述べ伝えた人物に、アンモンがいます。
アンモンとは、モルモン書に登場するモーサヤ王の息子であり、彼は王位を継ぐことを辞退し、敵対していたレーマン人に福音を述べ伝えるために伝道に行きました。

そこで行ったことに、私たちがこの日本で、福音に興味のない人に対してできることのヒントがあります。以下、その聖句を引用します。

アンモンがイシマエルの地へ入ったところ,レーマン人は彼を捕らえて縛った。レーマン人は,自分たちの手に落ちたニーファイ人を皆縛って,王の前に連れて行くのを習わしとしていたからである。そして,捕らえたニーファイ人を殺すか,束縛の身に置くか,牢に入れるか,それともその地から追い出すか,それは王の意のまま,思いのままに任されていた。
このようにして,アンモンはイシマエルの地を治めている王の前に連れて行かれた。この王は名をラモーナイといって,イシマエルの子孫であった。
王はアンモンに,この地にいてレーマン人の中で暮らしたいか,すなわち自分の民の中で暮らしたいかどうか尋ねた。
そこでアンモンは王に,「はい。しばらくこの民の中で暮らしたいと思います。死ぬまでここに住むかもしれません」と答えた。
そこでラモーナイ王は,アンモンのことを非常に気に入り,彼を縛っている縄を解かせた。そして,アンモンに自分の娘の一人を妻にめとらせようとした。
しかしアンモンは,「そうではなく,王の僕になりたいのです」と言い,ラモーナイ王の僕になった。そして彼は,レーマン人の習わしに従って,ほかの僕たちの中に加えられてラモーナイ王の家畜の群れを守ることになった。

モルモン書 アルマ書17章20-25節

レーマン人たちは福音の教えと程遠い生活をしており、また敵対するニーファイ人の話など聞くわけがありません(その証拠に、他のレーマン人の地へ行った兄弟たちは捕らえられて投獄されました)。

そんな時に、アンモンはレーマン人に純粋に愛を示すことにしたのです。レーマン人の地に住み、そこで生活をしながらレーマン人の人たちに愛を示す、そのことが何よりの伝道になることをアンモンは知っていました。

後にアンモンは困っている王の僕たちを助け、そのことがきっかけでレーマン人の王の一人ラモーナイの心が備えられて、福音を述べ伝える機会が生まれました。

この経験から、私たちは社会で、学校で、日常生活で、人に親切にし、愛を示すだけで、それが立派な伝道になっていることが分かります。

もちろん、前述したように伝道のために親切にするという「条件付きの愛」は間違っています。ただ、その人を愛し、下心もなく純粋にただ愛を示し、親切にするだけです。福音の実践が、何より大きな伝道なのです。

霊界への伝道「家族歴史」

家族歴史こそ、もっとも実りの多い伝道です。
私たちの先祖は、亡くなって霊界でイエス・キリストの福音を聞く機会にあずかっています。そこで福音を受け入れた先祖が、私たち子孫が自分たちを見つけてくれて、記録を調べて名前を神殿に提出し、身代わりで儀式を行ってくれるのを、今か今かと待っているのです。

自分の先祖を調べ、先祖の儀式を神殿で受ける時、本当にその先祖が喜びに満たされていることを感じることが多々あります。

一説には、末日聖徒の先祖の多くは、霊界で福音を受け入れている人たちだと聞きます。

この世での伝道に加えて、私たちは霊界での伝道にも力を尽くしたいと思います。

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