政治批判をする若者とは
なんか変なコラム感が出ている今回のタイトルなんですが、最近政治批判が強まっているように感じてしまうよね.そんな軽いスタートで話を作っています.
僕の周りにも政治批判をする人はいるが、本当にそうなのか?と疑問に思う点も多く、若者が声を挙げている事だけに気を取られ実態には入り込まない上部の批判になっている場面を多い.
問題は理解する方ではなく、それを発言する方にあると僕は思っている.別に間違った理解は問題ない(理解すればいい)のだけど、扇動してしまう人がいる.2007年頃から我々の生活の一部になったTwitter(現X)は以前は聴衆だった人たちが扇動できる側になった(なってしまった).それが正か負かは僕には判断できかねるけども、2011年の東日本大震災ではSNSにより助けられた人々も多く、心の支えになってる面も当然存在するのは周知の事実である.
話を戻すと私は識者とバカが入り組んだ見えない世界において煽動者によって多くの人が方向を間違える可能性があるという事へ危惧を提示しているのが問題であり、その一例として近年の若者の政治活動家を批判したいという意思がある.僕は若者の政治活動家を全面否定したいわけではなく、一部の活動家には専門性による普遍性が歪んでしまっている危険性を孕んでしまっている.
一例を挙げると財政支出は増やすべきか.という問題は理解を得やすい.2020年のコロナ禍に於いて政府は国民全員に対して一律10万円の給付を行い、その他にも多くの経済的支援という財政支出を行ってきた.そこに出てきた意見が積極財政と緊縮財政を掲げる二元論の方々である.
僕も以前、積極財政派の高校生の方と対談する機会がありお話させていただいたが、結局理論の根本であるMMTの信用性(内容は省かせていただく)の概念の確認になり、経済面で喋る私とシステムで喋る対談相手ということになり平行線状態になってしまった苦い思い出がある.(これに関しては話題の提示する時点での趣旨の確認が整理されていなかった僕の責任があった)
この財政支出という面で見ても数多くの人意見が寄せられるのは間違いない.しかし実際に起こされている論争は財政支出は“するかしないか“の二項であり、財政システムの話やマルケルスの「老人を生かさんがために...」などの哲学的要素もなければ、コンビニのおにぎりの話だって出てこない.
皆が大きな課題に立ち向かい扇動し堕落していく.それが今の論争の結末になるだろうと思える.
ここにはエコーチャンバーやフィルターバブルといった現代ならではの課題もある.そして何より対立軸が明確になり議論が単純化しやすく誰にでも理解できてしまう面がある.
そのため議論の複雑性をなおざりにし、単純明快な解を皆が求め二元論の会話となるのだ.正しく堕落した議論とも言える.
特に顕著に見えるのが若者による政治批判である.一部の政党に偏り政党の中でコミュニティを作り他の意見は寄せ付けいない傾向がある.初めは興味本位なのかもしれないが徐々に扇動していき結果として政党の思い通りの扇動を始めてしまう.マッカーシズムを想起させる流れが作られている.
そして彼らは専門分野としてスペシャリストという立場が強い.それには汎用性のある知識ではない専門家としての立ち位置である.要は知識に乏しいということである.知識は際限のない欲であり僕も乏しい分野は多い.それが一部に特化し専門家していったのだが、専門家は専門家の中のコミュニティで生き、他の分野には顔が効かない.
ここまでくると内容はもっと本を読めという結論になっても仕方がないのかもしれないが、知識を養う上で読書は必然の努力となる.読書のしない若者が政治を批判し専門家になっていく現状は正に悲惨以外の言葉が出ない.
若者が政治に対する批評は国の歴史を見ても大きな原動力となりイノベーションに繋がる.残念ながら失敗に終わったアラブの春の前にはジャスミン革命という26歳の青年による焼身自殺があり、行動はともあれ若者の訴えたことにより民衆が動き出した大きなイノベーションの原動力であった.
その可能性を踏まえ知識を有することがイノベーションであり、専門家ではない知識人として在るべき姿ではないだろうか.