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寺子屋から見る教育の姿

徳川家康公が天下をとると時代は泰平の世に突入し、多くの文化や産業、学問が発展した.

武士の刀を作っていた鍛冶屋は包丁を作るようになり、鉄砲鍛冶の持つ精巧な鉄加工技術は錠前に利用されることになり、戦の技術は庶民の日用品の技術に使われるようになった.

そして、この時代に一大ブームが訪れたのが数学ブームである.庶民の間では「銭のかからない趣味」として知られるようになり、武士が戦の時の測量や兵糧の計算に使われていたものが遊び、暇つぶしとして親しまれるようになった.

彼らの中でも特に数学に長けていた者や独学でより高度な計算を身につけようとしていた者を和算家と呼び、明治維新まで流行していた.

その和算家の中でも有名なのが吉田光由である.豪商の一族として生まれた彼はベトナムと朱印船貿易を行うなど江戸幕府の交易の重役を担った.そして当然のことながら商人として数学の教養は高く、一族の長である角倉了以が土木事業を指揮していた点から、高度な数学教養を持っていたと推測できる.

そして彼は『塵劫記』という数学本を出版する事になった.初版は漢文が中心であり、庶民には読めない書物だったが、その後、漢文仮名交じりの和文が発表され、庶民でも読めるものへと変化していった.

本には数の数え方、九九、そろばんの四則演算、売買計算、両替(当時、東日本と西日本では使われる通貨が異なり種類も多く東と西の取引の際に両替の計算は重宝されていた.)、利息など今の簿記会計に近い実践的な数学をメインに記していた.
著書は挿絵が豊富で子供でも読めるデザインになっている.

その後、吉田光由は『新篇塵劫記』を発表した.これは数学ブームに火がつき、全国で数学を学ぶ者が現れたが『塵劫記』だけを読んで和算家と名乗るような粗末な人間が和算塾を開くような問題が現れてしまった.これが和算のレベルを下げるのではないかと危機感を感じた吉田光由は新篇を出し、この新篇には答えを記さない“遺題”形式の問題を載せていた.

その後12年の月日が経ってから遺題を解く事に成功した和算家が回答書を出版するのだが、ここで新たに遺題として問題を書に記し、回答しては遺題を残す“遺題継承”のスタイルが生み出された.

これがさらに庶民の間で話題となり流行したのだ.

しかし、徐々に和算のレベルが上がっても基礎が蔑ろにされては廃れていってしまう.この時に子供の教養を育て支えていたのが「寺子屋」の存在だった.

授業で習った方も多い寺子屋の存在の最初は室町幕府に遡り、当時は武士の子が寺院で学べるものだったが江戸時代になると大衆化していき多くの寺子屋が開かれるようになった.寺子屋は今の“学校“のような仕組みはなく、とにかく自由で師もボランティアがほとんどだった.

この自由な学びというのが子供たちを大きく成長させ江戸200年の歴史を支えてきた.

一寸子花里「文学万代の宝 末の巻」
渡邊崋山画『一掃百態』

江戸時代に描かれた寺子屋の様子を見てみるとわかる通り、とにかく自由なのである.子供同士でお話しをしたり、先生にイタズラをしてみたり、真面目に習字をしたりと、とても自由に楽しそうに勉強をしている.

そしてこの頃の師匠(先生)は慕われていた.教育学者の乙竹岩造の『日本庶民教育史』という本の中では2,200人の寺子屋経験者の中で97%以上の人が師匠に対して尊敬の念を持っていたことが記されている.

そして地域の中でも師匠は中心的存在で金の無い師匠に対してお金を出し合って支援したり、地主や大家が場所を提供したりと濃密な関係を築いていた.

そして幕府も支援をしない代わりに、大きな制度や規制をすることはなく師匠は自由な教育をすることができていた.

現代の人から見れば、これほど理想的な教育はないだろうとも思える.地域、社会全体で子供を育てることが当然とされていた時代だったのだ.

しかし、時代は明治に入ると政府の西欧化は止まらない.

前回のnoteに書いた.

が示しているように和算ではなく洋算を主流にする動きが活発化し現代の教育形態が形成されるようになった.

小林鉄次郎『小学入門教授図解』

寺子屋が個別の教育だったのに対し、明治期では一斉授業になった.他にも政府は教育水準の水平化を図るために教師用解説書を用いた教育を基準としていた.これは1+1=2から始まる教育だった.

以前の和算では1+1=2のような計算は当たり前で記すほどのものでもなく、飛ばされていた.この必要以上の教育形態の形成には多くの和算家が疑問の声を呈し、数学レベルの低下と非難していた.

今の教育は間違いなく明治以降の教育を取り入れている.現在、教育学者の中では一斉授業の形態によって学力差が生まれていることへ問題視する声も高まってる.

どの教育方法が適当なのかは議論の余地があるが、間違いなく寺子屋によって江戸200年の歴史を支え、西欧諸国が1世紀かけて成し遂げた国家の近代化を日本は30年余りで成功させた.

さらに地域と教育の関係が根強く教師と住民の密度も高い.これほど成功した教育があるのだろうかと今の私は思ってしまう.もちろん、江戸の時代の庶民のレベルや時代背景もあるだろうが、寺子屋スタイルは見習うべき真の教育スタイルなのかもしれない.


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