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ドクショ と セイカツ

4434億円

この数字は1996年と2022年の刊行書籍の差分を表している。1996年はゲームボーイが一世風靡していた頃の話だが、ここをピークに紙書の市場は低迷を始める。

宗教指導者のダライ・ラマは「たゆまぬ知識の吸収と訓練を通して容易にならないものはない。訓練により私たちは変わる。自らを変容させることができる。」といっているらしい。

僕ら読書家からすると他人が読書を推薦することなんてどうでもいい話だが、紙書の売上が低迷し出版社が倒産するような事態に陥れば、僕は本気で本を薦める。対岸の火とまではいかないが、本と出版社には少し距離を感じる。

通常、僕は家の中が読書のスペースに割り当てられる。コーヒーと記録用のパソコンを横目に無音の世界で紙の擦れる音だけが時間の共有者となる。

スーっと擦れる音が気持ちよくて、その音を求めるだけかのようにページを捲っていく。

中学生の頃の僕は、自己啓発本に扇動され常に効率を糧に見掛けだけの人間を演じてしまった。

一時期、氷水の中に鉄を流し込むような感覚で自己啓発には無関心になってしまった。

幾つかの期間は良いように言えば自分探しの旅に出かけることにした。でも、僕は他人からの影響を受けやすいらしく親の持っていた殺人事件の書籍に目移りする。

まずは東野圭吾の『探偵倶楽部』に感動し、そのあとはずっと内田康夫の浅見光彦シリーズに沼ってしまった。オタ活はした事はないが、オタ活とはこういうものなのかと感心する。

読書に特別な感情は持っていないが無くなってしまうと急に不安になる。
そんなことは現代人からすれば容易に想像できる。

電車に揺れてる時に本がない、寝る時に本がない、病院の待ち時間に本がない、
全く依存もいいところである。

外の世界に出ると不安定になる

都会は嫌いではないが、秋葉原を歩いているときに感じる澱んだ空気

少し都会を外れても河川敷には都会の川から流れてくるゴミが待っている

綺麗な純白もゴミと同じ舞台に立ってしまうと哀れみの色に見えてくる

いつかのゴミを飲み込んで苦しんでるイルカの姿を見るような

本当に自由なのは鳥なのかもしれない、

マフィアを追っているジャーナリストが貧困の現場を取材した時に「僕らは貧困かどうかではなく、貧困の世界を見たいように見ている」といっていたが、僕もまた、鳥をいいように見ている。

子供の頃、触発されたアニメのせいで力を蓄えれば飛べると思っていたが、事実を知ったのは小学校に入学して鬼ごっこで捕まった時だった。

鳥は自由でいいよな。

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