AIと可能になる教育の可能性vol.1
最近はChatGPTと一緒にしりとりをして遊んでみるも,相手側がしょっちゅう最後の言葉を「ん」で終わらしてくる事にイライラしながら生活している.
そんな毎日を送っている訳だが、今回の題材にしたいのは「AIと教育」という何ともディティールに深掘らなそうな軽い感じの題材で今回は進めていこうと思う.
最初の話をすると私は高校生なので今回の目線は高校生の目線で物事を考えていきたいと思っている.
なので、ここで高校生には全く興味のない人とはお別れという訳になりそうなのだが、最後まで見てくれたらと思う.
人間の進化
「人間の進化」を最近よく耳にする.
しかし我々人類は誕生から500万年弱の歴史しか刻んでいない.地球誕生規模で見ればその規模は0.何コンマの世界である事に違いない.
そんな短い間で人間は進化可能だったのだろうか?
人類が誕生してから我々に身体的な変化が現れた訳でもないだろう.
周りを見渡してみて角の生えた人を見た事があるだろうか?少し前に流行った人面魚が急に喋り出した事はあるだろうか?
それは人類は身体的な進化は見えていないという事で間違いないだろう.
しかし500万年前の人類と今の私たちは全く違うと感じると思う.
それは脳の進化.変化が背景に存在しているからだと思っている.
今の世界には膨大なる「情報」が存在している.そしてこの情報が計算不可能な速さで伝達され我々は大量の情報を持つようになった.
しかしここで理解してもらいたいのは情報は全くをもって変化しないと言う事だ.
最近では情報の伝達の速さにより情報は毎日更新されるかのうように思われている.
Twitter,instagramの世界だろう.しかし情報の根源は何も変化していない.
ただ常に新しい情報が脳に伝達されているだけで本質的な情報に変化は存在しない.
コロコロコミックスもジャンプも週刊誌も毎月更新されるだけで情報は何も変化せず常に平行線のままに有り続けている.
では何故情報が変化していると感じるように思ってしまったのか?という疑問である.
この鍵となるのが我々の脳の内面的な要素である.
昜経の「君子豹変」という言葉を使って考えていこう.
この言葉は比喩だったり皮肉の表現方法が多くマイナスの表現で使われる事が多いと思う.
しかし意味を調べてみると
といった具合に説明されている.要は間違いを改め態度が豹変するといった考え方だ.
ここで起こっているのは人間の脳の学習である.
誤りを正し、自分を正しい方向へと導いているのである.
この時の自分は先ほどまでの自分とは全く違う存在だろう.
要は情報の変化ではなく脳の変化が起こっているのである.
この「君子豹変」は一生変わる事のない情報であるが、この情報を取り込んで脳が変化し、内面的な部分で進化が起こると言った具合だ.
この脳という人間の身体に含まれる臓器は他の動物とも大きく違う.
チンパンジーと人間の遺伝子は約98%合致している.
この遺伝子の関係で言えば人間とチンパンジーの違いについて述べるとなると難しい.
しかし大きな違いで言うとチンパンジーの3倍もの大きさの脳が人間には備わっているのである.
チンパンジーの何かしらの変異で人間ができたかもしれないが今現在の優位性で考えると人間が生態系のトップに君臨し管理をしていると言っても過言ではないだろう.
この君子豹変以外でも人間の脳の変化というものは感じる事ができる.
その最たる例が「万物は流転する」というプラトンの考え方である.
この言葉を調べてみると
と説明してくれた.
この世にあるすべてのものは,絶え間なく変化してとどまる事がないというのは一見すると当たり前のように思える.
しかし,この考え方の示したい事は別に視覚的変化ではない.
春から夏に移り変わり秋が訪れ,気づけば冬という変化を教えたいわけではなく,この考え方も一種の脳的な変化が起こっている事を示している.
例えば,毎日通学,通勤で利用している交差点があったとしよう.ある日その交差点を渡ろうとしたら目の前で大事故が発生したとする.
すると今までは普通の交差点が一変して目の前で大事故が引き起こされた悲惨な現場に豹変する.
すると交差点を渡るときは気をつけなければと自然な脳の判断が働くことになるだろう.
昨日までは普通の光景も事象の変化によって変化するのである.
いつもは気にも留めていない木も何故か切り落とされるとなった時,急な愛着が湧いたり,切らないで欲しいと感じる.
しかし昨日の木の形も葉の揺れ方も何も覚えていないはずだ.
「万物は流転する」というのはそういうものだのだ.
つまり情報は何も変化していない.変化するわけがない.ただ脳が変化しているだけなのである.
ここまで話すと「昨日の自分と今の自分は違う存在ではないか」と思い始めるだろう.
正にそうなのである.そして現在進行形で私は私ではない.
遺伝子もお腹の出っ張り具合も割れてしまった爪も何も変化していないように見えて,脳は常に変化している.
そんな変化の中で我々は生きてきたのである.
教育の序章
さて教育という言葉を聞くと何故かアレルギー反応のように拒絶する生徒たちは何故教育にここまで拒否反応を示すのだろうか.
教育は大切であり、教育がなっていないと産業革命も今の資本主義と民主主義が折り合っている社会を作り出す事は不可能だったに違いない.
しかし巷で話を聞いてみると教育って本当に大切なの?軍隊教育となんら変わらない.と言った声をよく耳にする.
要は教育に対して絶対的な価値を見出せていないのだろう.
そもそも教育は必要なのだろうか?と.
私の考えを先に述べておくと教育で必要になるのは「興味」これに限ると私は考えている.
では何故興味が重要視されるのか?ここでやっと話の題材であるAIを登場させて考えてみたいと思う.
まずAIの可能にする教育の例を挙げていきたいと思う.
1.個別の学習体験のカスタマイズ
2.自動化されたフィードバックと評価
3.AIによる教師の支援
1.個別の学習体験のカスタマイズ
AIは,学生の能力や学習スタイルに合わせてデザイン可能である.ニューロダイバーシティのような各個人レベルでの教育の可能はその人個人の能力を最大限まで広げる事ができる.
例えば,対象が小学生だった場合、小学生を対象に十数万人規模(ここで重要になるのはAIに入力するためのデータ量なので数に決まりはない)に作文を書いてもらって数年後のデータと一緒に蓄積させる.
すると小学生の頃に描いた作文のデータの蓄積からのデータが蓄積されているため対象の小学生に作文を書いてもらうと将来向いている職業だったりがわかる.
要はAIによってそに人の人生を子供の時から大体を予測する事が可能になる.
これに対し多くの異論がある.
「小学生の頃のデータなんかじゃ将来は分からないだろ」
しかし本当にそうだろうか.
例にスポーツ選手をとってみる.
幼少期から野球の才能があり毎日バッティングセンターに通い野球チームのエース考えればその人が浮かぶような存在がいるとしよう.
反対に野球の練習には参加するが才能はなく、練習も試合のプレーも至って普通のプレイヤーが居たとすれば将来の可能性を考えれば前者が野球選手になる可能性が高い.
他にも、陸上競技でも同じである.足の速い人もいれば練習しても足の遅い人は存在する.
要は生まれながらの個性を皆が持っていると言う事だ.
この個性に関しては何も変化をもたらす事はできない.
努力によって一定のチャンスは握れるかもしれないが、それでも勉強しなくても点数が取れるやつは何人だって居る.
そこを理解しなくてはならない.
この個性は変えることができない.今風に言えば人生規模の壮大なガチャというべき事だろう.
話を戻すが,AIによって子供の将来の適性を分析し,その対象の勉強スピード,価値観,意欲を上手くデザインしながら成長させる事ができる.
今のような学校に行って,数十人規模の人数で一斉に勉強に取り組もうといった非効率さは消えるのである.
実際にカーンアカデミーのような存在があるように自分で興味のある分野を勉強します,将来に役立てる思考は年々重要視されている.
しかし,ここで理解の必要なのは小学校からでも自分の興味を学ぶべきか?という点である.
脳の変化で話した通り,昨日と私と今の私は全く違う.小学校の頃の自分と大人の頃の自分とは全くをもって違うと言える.
小学生の頃から物理学を理解しているスーパーマンは超マイノリティであろう.
しかし物理学の目線から研究者になったり,社会のための開発を行いたいかもしれない.
個性の部分で言えば,自分は特別物理が得意かもしれない.
しかし小学生の頃から理解できていないとなると,小学生の頃から興味のある事だけを勉強しても自分を見つけるのは難しいだろう.
そのため,何歳でも自由な選択をするべきではない.小学校,中学校では一定の基礎学習を大ない,自分の選択肢を広げるべきなのである.
国が中学校までは義務教育課程にしたのは,こういった狙いがある.
AIは小学校,中学校ではその人に合った勉強学習をカスタマイズし,一定の基礎知識をつけるためのマネージャー的な存在になる.
2.自動化されたフィードバックと評価
これは簡単な話で家に常に駆動している家庭教師的存在がいるという事である.
学習者の勉強の進捗を分析し,自動的にフィードバックと評価を提供することができる.
学校の場合だと先生に課題を提出し,課題が返却された時にちょっとしたスペースに「頑張ったね」だったりのスタンプと一緒に正答率が出るような感じである.
それがAIによって代替されれば,常に深夜でも早朝でも素早いフィードバックが可能になる.
自分の勉強の進捗度だったりが常に把握できるという事は勉強への意欲的な変化も大きい.
ここで疑問に思われるのは,「AIの場合だと正論しか言わず,学習者に現実的なきつい言葉もかけるのではないか?」ということ.
まずAIを理解しているのか?と感じる.
AIはデータによる分析だが,その材料となる特微量の他にAIは人間によるプログラムによって駆動するロボットである.
だからAIは考える事もできないし,思考する事もできない.
プラトンのような思考回路を再現する事は可能でもプラトンを作り出すことはできない.
だからAIにプログラムすればいいだけの話だ.
イメージに困難になりそうだが,実際に我々もAIに簡単にプログラムは可能である.
ChatGPTと呼ばれるOpenAI社の開発した言語生成モデルを使って実装してみると
今回はこのような形でのフィードバックを要請したいと思う.
すると堅物系の口調でフィードバックしてくれる.
要は求めるフィードバックの形はプログラムで変化させる事ができるため,厳しい事を言うのではないか?という愚問は無いとわかるだろう.
常に自分専用の家庭教師がいる状況は今までに無い体験と支えになる事は間違いないといえる.
3.AIによる教師の支援
教師がAIを活用する事によって教材の作成や学生の進捗管理などの煩雑な作業から解放され、より教育に集中することが可能になる.
教材の作成というのは簡単に言えば授業内で使用される教材の事である.
数十年前に学生だった人は知らないかもしれないが今の教育ではスクリーンを使用したデジタル教材の使用やパワーポイントを利用した授業風景が多い.
以前のような数学で図で説明するために1から先生が手作りで頑張るような大変さはないかもしれないが、それでも教材の作成には一定時間の拘束が含まれてしまう.
しかしAIを使う事でパワーポイントの自動作成や要点のまとめたノートの作成が簡易化される.
先ほど例に出したChatGPTを使うと、言語生成AIの利用により簡潔した文章を作成してくれる.
その完結した文を考える時間は省略できる.
そうやって様々なAIを活用する事で今まで割いていた時間をAIに任せ、自分は違う作業を行う事ができるのである.
これはAIが人間の仕事を奪うとも捉えられるかもしれない.
しかし、実際の社会では仕事の早く分かりやすい説明ができる人と仕事が遅くたいして理解し易くない説明をする人では「出世するのはどちらか?」と聞かれれば一目瞭然だろう.
教師の世界は公務員なため社会とは一脱した存在かもしれない.
しかしAIを使って早く仕事を終わらして少しでも自分の仕事量を減らして帰るか、限界社員のような生活を毎日送るかでは大体の一般人は前者を選ぶだろう.
しかしここでの話は綺麗事を述べたまでに過ぎない.
実際には学指導要領で厳しく定められた学習範囲と教師に備わる知識による左右変化が大きいため、一概にこれが正しいとは判断できにくい.
正しくても70歳のおじいちゃんが急にAIを使えなんて言われても倒れてしまうだろう.
まずは教師の教育が必要となってしまう.
この教師が足りないと言われている世の中に仕事と自分の勉強を両立させても全然大丈夫な人間はそう居ない.
AIという技術は進歩しても利用する人間側の知識量、リテラシー量が少ないと自動化されない限り宝の持ち腐れ状態になってしまう.
今後は子供の教育以上に教師の教育が必要になってくる.
今世界は常に進化し続けている.人の脳とはそういうものである.
その進化に追いつくためには,常に学ぶ必要と常に考える必要があるのだ.
1巻末