『明け方の若者たち』にはなりたくない、という話
表題の小説の帯に書かれた「人生のマジックアワー」というには、余りにもありふれていた時間だった、と思う。
学生街で安酒に熱った身体にジンジャーエールを流し込み、駅前の交番公認の巨大喫煙所に変貌した北口のロータリーで独りで煙を吐く。街のルールに従うように、ハリのない古着をできるだけ緩くユニフォームのように纏って、何故か決まって深夜23時過ぎに現れるスケーターと共に、ただただ廻るような夜を幾つも越える。
独りはやがてふたりになって、ロックバンドの歌の中にだけ存在していたはずの商店街を抜け、またしても出現する商店街の途中で、無添加がウリのドーナツをよく買って、帰路に着く。帽子で誤魔化した、鎖骨まである髪の毛をいつ切るの?と半ば呆れ気味に問い詰められながら、地元にはないチェーン店のレンタルDVDショップに時々寄る。何となく流行っていそうで、何となく少しメインカルチャーから外れていそうで、何となく泣けそうな映画を、準新作のコーナーから抜き取る。
杉並区を通り越して中野区に少し入り込んだ閑静なエリア、一人暮らしには充分過ぎる、バストイレ別の初めての自分の部屋。隣に住む大家の苗字が、誇らしげに掲げられたアパート名。
別に見たくもないDVDを見ながら、登場人物の名前が自分と同じだ!なんてことにはしゃぐ姿に呆れ、終盤の典型的お泣かせ展開に、嘘か本当かもわからない透明な線を描く横顔に気づく。ペルソナマーケティングの真ん中を直視したような感覚を得たこと自体に、嫌気が差した自分を諌めるような余韻だけが部屋に残る。
気づけば、若さ故の義務感に迫られたようなセックスをして、仮初めの優しさと精一杯の嘘を束ねて、静寂を得る。青と黒の間、どちらかと言えば青に近い、海みたいな空の灯りを便りに、ベッドの真横にある大きな窓から文字通り半分身体を放り出して、洗濯機の上に粗雑に置いたガラス細工の灰皿を手元に引き寄せて、意味もなく煙を吐く。“私より好きなたばこ”という歌詞を自分で呟いて、ロックバンドを聴かない寝顔に、何故か行き場のない溜め息を溢す。
ふたりは徐々に独りになる。何もかも今の自分から消えてしまったかのように、あの街に過去を綴じ込めてしまったと感じるのも束の間、その後すぐに移った新しい街は、何時だって、新しい時間を描き始める。
街も世代も感情も、自らにとって嫌が応にも共通項のあるフィクションとリアルの狭間のような世界に出逢うと、記憶は詐欺師にでもなったかのようにベラベラと吐き出されて、止め処なく流れ出てくる。お気づきの通り、多分な虚飾と美化があるくらいが丁度いいほどに手垢に塗れて生活感に溢れたあの時間は、余りにもありふれていたもので。「それ」を、人生のマジックアワーと呼ぶということは、とてもじゃないけど認めたくはない。それくらいには、まだ往生際が悪く生きていたいと思うのは、僕だけじゃないと思う。
ただ、彼らが過ごした店舗とは反対側の北口の大将で、一階の厨房近くのテーブル席、少し濃いめのウーロンハイとモツ煮、それだけがすべてだった頃の僕は、確かにいた。
そんなことを、こうやって仕事終わりに、つらつらと厚顔無恥にも書き記している。
嗚呼、絶望的なほどに、余りにもありきたりな時間を『明け方の若者たち』の彼らのように、また僕は過ごしている。