舞台「ムーランルージュ」感想
戦後の劇場の話。敗戦、暗い時代。生きることに必死な時代。そんな時にエンターテイメントの灯はともるのか。
華やかなショーで幕を開けると、その裏側での人間模様が描かれていく。
日本は敗戦国。支配された中、復興に向けて動いている日本で、色々な感情を持った人間がいることが丁寧に描かれていく。
この作品、後からの方がじわじわと来る。色々な感情が湧き上がってきて、自分の中でまとめていく中で、配信でも見直すと、より複雑な気持ちになってしまう。
その一つが、冒頭に書いたもの。
新型コロナが蔓延し、演劇業界は大きなダメージがあった。主宰のことのはさんも、ジプシーの千穐楽が中止になった。その後、各団体が模索している中で、数多い作品の中で、一つ、クラスターが発生して、だいぶ演劇を叩くコメントが溢れていたのを覚えている。
「こんな時に娯楽なんて必要ない」
そんなコメントが数多くあった。ムーランルージュの劇中の時代も、やはり同じような声はあったのだろうか。
ふと、そんなことを思った。
そして脚本の検閲。
これも以前、脚本が検閲される苦しさを描いた作品を観劇したことがあり、今回も考えさせられた。限られた縛りの中で創り上げる作品。それがどれだけ大変で、ましてや創り上げたものからふある部分を削られると、全体に矛盾が出てくるときも当然あり、描きたいことを諦めないとならないことにも発展する。
それが今作品では怒りとなり、ジェシーにぶつけられる。ジェシーはジェシーで、アメリカでも日本でも、扱いが中途半端な立場に苦しんでいる。哲平は戦地を経験し、何とか生きながらえて帰ってきたら、愛する人はすでに他人の手に渡り、そうしたのはアメリカという想いが隠せない。その想いを作品作りにぶつければ、そこに立ちはだかるアメリカ。
更に言えば、見た目はほぼ自分たちと変わらない日系人。より複雑な想いが交錯し、自分を保つので精一杯のように見える。
自由に憧れ、アメリカに負けて良かったという考えもあり、でも仲間たちを殺されたものにとってはそう簡単に受け容れられない。さらに、自由だ、民主主義だといいながら、台本は検閲されるという矛盾。
今は検閲されなくなったが、代わりにコンプライアンスや人の目で、批評を超えた事後検閲が行なわれる。
この作品を作っている人たちも、作り手側なわけで、どのような想いでこの作品をみていたのだろう、とふと感じた。
そしてこの物語、やはり大きな軸は女性たちになるだろう。
劇中でも触れられていたが、”パンパン”にならざるを得なかった人たちも多い。そしてムーランルージュで行なわれる多くのエンタテイメントを脅かしていたのがストリップ劇場。
ストリップを批判的に見るわけでもないし、プライドを持って、生きるために演じている人たちもいるだろう。でも見ている男側がそうかというと、残念ながらそうではない。
ストリップ劇場の方が人が入る、そんな描写があるが、そこに悔しさを滲ませていたのは男たちだった。そこには、やはりそういう男の目も分かっているからこそ、そんな人たちでも客と入れば盛況と言われ、ムーランルージュは人が入っていない、そんな評判がたつ。それがなにより悔しかったのだろう。
それは、ムーランルージュで行なわれるものに誇りがあったから。特に同じ女性の演者が多いとなると、その女性たちの努力に報いることができない。それが悔しかったのかもしれない。
その女性キャスト。やはり特殊な役を演じただみさこさんこと、篠田美沙子さんは良かった。
当たり前だが、演劇は全ての小道具や人が揃うわけではない。そこは観る側が脳内で補完する。花火のシーンがあっても、花火は実際にあげない。映像作品ならそれも可能かもしれないが。それは演劇では当たり前の話。子供を大人が演じることも多い。
そして、だみさこさんが突然、子供を連れている風に演技をする。咄嗟に脳が補完して、子供がそこにいると思って観てしまった。しかし、実はそれは亡くした子供を忘れられない母の姿だったわけだが、最初に騙されたのに、少しずつ、だみさこさんの演技に、違和感を感じ始める。「そこに子供はいるのか」ということ。
心に傷を負い、病んでいる姿。それを少しずつ、感じさせる演技。逆に、最初はそれを感じさせなかった。
特にこの作品、休憩を挟んで、作品の色がガラリと変わる。それが観劇後に一番に感じた感想だった。作品の色が変わるにつれ、病んでる姿がさらに明確に表情や仕草に現れる。
黒くなり始める後半の作品の質。観ていて呑まれそうになるくらいのものがあった。
夢、というキレイごとではない。生きるために、生き抜くために女たちが必死にもがき、しがみつく姿。現代からすると、裏切りと捉えられてもおかしくないかもしれない。
でも、その時代は、そうしないと生きていけなかった。
だみさこさん演じる真喜子は子供に執着しなければ生きていけなかった。
いつまでも心にいるよ、なんて気の利いた言葉ではない。本当にそこに姿がなければ、自分を保てなかった。家に帰れば、2人分の食事を作り、会話をして食べていた姿が目に浮かぶ。目に浮かぶ演技を見せてくれた。
そもそも、だみさこさんが演じている時点で、何かあるだろうとは踏んでいたので、最初に騙された時も「あれ、おかしい」と思ったくらいだけど。
それにしても、前回の「おつかれ山さん」といい、母親(妻)役が出てきただみさこさんだけど、その姿にあまり違和感がないのは、帰った家にいたら幸せに感じる雰囲気を持っているからかもしれない。とはいえ、癖のある役が来るのは変わりないわけで、これから母に限らず、どんな姿を見せてくれるのか、楽しみになった。
そして今回、暗い雰囲気漂う後半でも、その笑顔がステキだなと感じたのが、上不あやさんだった。
観劇前、Twitterのタグで検索していたところ、上不さんを発見して、その大きな瞳に惹かれた。インパクト強かった。
劇場、最前列で観劇した時、劇中でも色々な役を演じていたけど、どこにいても目をひく。舞台上に出てきたら、なんとなく目で追ってしまう。笑顔のシーンがあれば、その屈託のない笑顔は、まさに少女の様で、でも大人の色気漂わせる雰囲気も持ち、もっと色々な時代、色々な役を演じたら、どうなるか観てみたくなった。
暗い時代だけど、前を向こうとする人々。前半はそんな印象の作品。その光の象徴はやはり笑顔。でも、大人になると、笑顔も計算して出す。だけど、それでは、作品の様に、前を向くのが精一杯。その笑顔に打算的なものがないと、前を向くだけではなく、走ることができる。そんな笑顔を上不さんは見せていた。
そして後半は、自分の思い通りに行かない時代。前を向いて歩き始めたのに、壁が立ちはだかり、道をふさがれ、時には断たれ、立ち止まったり諦めたり。そんな中、色々忘れてリセットして、それこそ、ドラッグなどに頼らないですむには、あの笑顔だと思った。
哲平には、ナナ子の笑顔が必要なのではないかと、そんな風にさえ思った。
上不さん、ことのはさんは色々な時代の作品を公演するので、向いているような気がした。
色々な時代設定に違和感のないものを持っていそうな気がした。
だみさこさんと肩を組み、食べたいものをいうシーン、あそこは観ていて幸せそのものだった。
食べ物のシーンでもう一つ。
シチューを食べるシーンで、実際にシチューの匂いがしてきたのには驚いた。勘違いかと思ったら、近くに座っていた人たちが、そんなことを言っていたので勘違いじゃなかったと思った。と同時に、これ以上にない臨場感で、それこそ、そこに見えないシチューを脳内補完するには最高だった。今までありそうでなかった。少なくとも、自分が観に行った舞台ではなかったので感激した。
ムーランルージュの公演が情報解禁された時、ロシアのウクライナ進攻はまだしていなかった。それが公演の時期に始まり、戦争というものが、少し近く感じ、それでも対岸の火事であるからこそ、この作品を観たことで、戦争が生む悲劇や未来を強く感じたし、考えさせられた。不謹慎かもしれないが、そんなことを感じ、今、現実で起きているロシアとウクライナの事も、もっと真剣に考えるようになった。
そしてこれもまた偶然だが、帰りに劇場からウォーキングして帰った時、たまたま、東京都戦没者霊苑というところに遭遇した。こんなところがあるのは知らなかったし、ムーランルージュ観劇後に出遭うことで、更に複雑な思いが去来した。
これから先、このウクライナ進攻を思い出すときが来たら、必ずこの作品と演じた人たちを思い出すことだろう。
しかし久しぶりに観た井上一馬さんの迫力ある演技、圧巻だった。
この座組で違う作品が観てみたいと思うほどだった。
忘れられない作品をありがとうと、素直に言いたい。