舞台「印」感想
劇場で2回、配信でも両班観劇。
近年、「年末と言えば盆栽サイダー」となっている自分がいる。
2年前、TSUKUMOで大野愛さん、そして昨年、嘘神で崎野萌さんが出演され、今回はその2人の共演。劇中での絡みはないけれど、2人の共演は楽しみで、実際に見ごたえがあった。なにより、この作品に酔いしれてしまった。
余談だが、ここ2年より少し早い時期での公演だった。これが助かった。クリスマス付近は毎年仕事で休めず激務期間なので、それより早いおかげで2回行けた。ありがたい。
そして今回の作品。最初に言うと、劇場で観てから配信が始まるまでに、自身の環境が変わり、余計に感情移入してしまうことになった。そして、1月の激務期間も終わり、ようやく落ち着いて清書に取り掛かれた。書いたメモを見て、chaAさんの「針と糸」を聞くと、1つ1つのシーンが脳裏に浮かぶ。忘れることのないその光景に、あれだけ良かった過去の年末作品を、大きく超えてしまったのだと、自分の中で存在が大きくなった。
劇場で前説から始まる漫才。自然な流れから、”前説の一つ”と思っていた初回観劇時。途中で、咳き込むこともあったという台詞で、「あれ?」と思い、そして二回目の観劇で確信を持った。ここから始まっていたのだと。不思議なもので、”盆栽サイダー”の前説から紹介した漫才コンビ「羅生門」。でも、現実にいたとして、盆栽サイダー公演で漫才をふられたという設定として捉えたら、それはそれで面白いし、現実とリンクする感じでますます面白くなった。配信の”前説”から、「本編どうぞ」で始まったのは漫才から。これは、劇場で観ていた方がより面白かっただろう。
余談だが、現実とリンクさせたような設定は好きだ。以前、ある舞台を観劇した際、主演していたのが元アイドルだったが、役名を背負って過酷な人生を描いたラストに、そのアイドルグループに所属していたと繋げて、主演していた人の人生の様に描いた設定があり、これは面白いと脱帽した。今回、それに近いものを感じ、ワクワクしていた。
意外な形で始まった今回の作品。その漫才も最初は余興だと思っていたので、日替わりネタかと思っていたが、そこでテーマにされたのが、「過去は変えられない」ということ。そして、それを書き換えたいというネタだった。
この作品は、確かに過去を書き換えられたらどれだけ救われるのかというラストに向かうように見える。もしあの時、消印をルール通りに押していたら・・と。しかし最後まで観て、そしてこの漫才を思い返した時、過去が塗り替わったと思えるようになった。その理由は、また最後で。
そして、最後のオチ、「あなたとコンビを組んだことが一番の後悔」という言葉に、何とも言えない表情を見せる士門。これからの物語での中枢部分を象徴する表情だと気が付いたのは、二回目以降だった。
そして放たれた「これからの人生楽しみだなー」という言葉。絞りだした精一杯の言葉だと思うと、もうこの時点で感情が溢れてしまいそうになった。
今回も場面展開がたくさんあり、そして今回は時系列も特に激しい。
最初、侑里と充希の会話で、「一回くらい生で観たかった」から、「それは残念ですね。亡くなった人は戻ってきませんから」と繋がれることで、羅生門の内、少なくとも1人が亡くなっていることが判明する。この時点で、士門が亡くなっているということが分かる。でも、これも、一回目の観劇では流してしまった。一回目の観劇では分からないことがたくさんある。配信の特典映像で、大野愛さんも言っていたけど、たくさん観たら分かることがたくさんある。観ないとわからないかもしれない。
そして、始まる「ゼロの日」から数日後の口寄せの日。ここから物語は始まる。崎野萌さん演じる琴葉の決意の顔、そして玄田が琴葉に向かってお辞儀をする。このシーンも後から観てまた気が付いた。この玄田が頭を下げるシーンは、2つの班でそれぞれ微妙に違い、なかなか片方は気がつくことができなかった。気がついた時、その重みを感じた。
しかしこのルール、改めて思うのは、便箋1枚程度しか想いを綴れないということ。口寄せをしてまで会いたい人。そして口寄せは、自分が望んでも相手が望んでくれないと成立しない。まさに、侑里が言っていた「両想い」にならないと叶わない。それで両想いになったほどの相手に、便箋1枚しか書けないなんて、何を書けばいいのだろう。書き始めたら1枚では収まり切れない。そんなことをふと思ってしまった。
そして、琴葉のことを忘れている弥勒は、消印を押すことを強く言う。念を押し、「何があっても必ず」という。他の時でも、消印の事に対しては強く言っている。それなのに、琴葉が母に会う時だけは言わなかった。強く言うことを見せることで、琴葉と母が会う時に言わなかった弥勒の想いの強さが引き立つ。
そして、強く念を押された時の琴葉の表情。その表情に、その微妙な感情が凝縮されていた。少し驚き、そして自分の時にはどうして言ってくれなかったのかという疑問。それらを一つの表情に凝縮する崎野萌さんはさすがとしか言いようがない。
そして物語は進み、口寄せをした者たちはみな言う「生きているうちにもっと話しておけば良かった」という言葉。そしてそれに対する「理屈じゃないんだよ」という言葉。
この作品を劇場で観た時、まさに自分の父が入院していた。一ヶ月前に緊急入院したが、これまで何回かあり、またすぐ退院するだろうと思って面会にも言っていなかった。そして公演でこの台詞を観て、少し心にチクリと刺さった。
そして観劇後、病院に行ったらほぼ話ができない状態だった。その時は、眠そうにしていたので仕方ないと思ったが、年明け、また会いに行ったら今度ははっきりと起きていて、口を動かしているが言葉が出てこない。こちらの事をわかっているのか疑うほどだった。
ちょうど配信も始まった頃だった。
そして改めて聞いたこの台詞。
劇場で観た時よりも、その言葉の重みが身にのしかかった。もう、話をすることはできないかもしれないと悟ったからだった。
まだ生きているけれど、話ができなくなる状態もある。もっと話しておけば良かった。そんなことを思っても、もう後悔しかない。自分を責めることしかできない。
理屈じゃないという言葉も身に染みた。そして、それが少し支えになったのも事実。周囲も、父親となんかそんな話をしないと言う。理由は特にない。色々伝えたくても、何だか突っ張って、こそばゆくて言わず。そして迎えた話が出来なくなった日。
劇中での一言の台詞。これが短期間でこんなにも自分の中で変わったのは初めての経験だった。配信を観てから、父が夢に出て元気になった姿を見せるようになった。話ができるようになっていた。でもそれは夢に過ぎない。口寄せもない。そう考えると、口寄せをしたいと願う気持ちも分かるようになった。劇場では、口寄せをしたいと思う人はいなかった。でも、今はより、この物語の本質が身に染みる。
おそらく、これも舞台だからだと思う。映像作品は、やはり舞台に比べて客観的になりすぎてしまい、ここまで感情移入ができない。舞台作品として出逢えて本当に良かった。
この物語は、他にも軸があり、その内の一つが健吾と夏枝の物語。
健吾は不器用で、人がいいのだろう。人前に立って漫才して、色々な表情が視界に入り、「これでよかったのか」「あの人不快にさせたか」とか、様々な事を考えてしまうのではないかと思うような人。
夏枝の事も、どう呼んでいいのか悩む。下の名前で呼びたいけど、そんな呼び方したら気を悪くしないかとか考えて。そんな不器用さにも共感できた。
そんな健吾だから、夏枝も自然と夢を話せたのだろう。島の人たちは閉塞的な考えがあるという。自分の夢を馬鹿にされてしまう。そんな想いを感じる夏枝。
これも経験がある。
まだ小説を書いていた頃、親、そして社会に出て初めての上司に、そんなことをしても意味がないと言われた。現実的と言えばそうなのだが、それで食べていきたいと言ったわけでもない。それでもそう言われた。どちらも、そんなことはすぐに忘れたことだろう。
でも、言われた方は決して忘れることがない。今でも鮮明に覚えている。
夏枝も同じような思いをしたのではないか。カフェの話ではなくても、小さな夢を話して否定された事が。そして自分が経験したからこそ分かる。誰かに否定されてしまう怖さを感じた時、誰かにそれを話してみて、また否定されないかと思った時、あの表情以外あり得ない。愛さんの表情は、まさにそれだった。夏枝の思いを丁寧に拾い上げ、そして共感者になりながら作り上げたであろう夏枝の姿は、とても素晴らしかった。
夏枝も島は嫌いではないのだろう。島の人たちも好きなのだろう。嫌いなのは、閉塞的な考えを持たれること。結果、今の自分も、否定された親の介護をしているし、その上司とも親しくしている。凄く複雑な気持ち。一度でも、心を潰されたのだから。
そんな難しい感情を、大野愛さんが見せた自然な形で表現。
愛さんは、人の自然な仕草や表情を丁寧に一つずつ表現する。舞台は過剰な表現をすると思われているというのも分かるが、そんな中で、ごく自然な表情を作る。だから目立たない事もあるかもしれないが、その事に気が付くと、途端に魅力的に感じる。
一つ一つが丁寧だから、言葉はいらない。
初めて愛さんを見つけた時も言葉は一つもなかった。一つ一つが丁寧だから、グッと目を引く。存在感が生まれる。
羅生門、夏枝と健吾、そして最後、奏多と姉の話。
見舞いに来たことを詰る奏多。侑里に推されるくらい人気のある教師とは思えない姿。それは、親しいからこそ言ってしまう強い言葉。余命3年と宣告され、不安に押しつぶされそうになる。
「あるかも分からない未来の話なんかしても」
「明日死んだら、それが俺の一生なんだ」
聞かされる方にとっては、鋭い刃物でしかないような言葉の数々。
前述した「生きているうちにもっと話しておけば良かった」という言葉に、「理屈じゃないんだよ」と答えたのも奏多だった。
親しいというのは、家族という関係は時に残酷で、鋭い言葉を投げつけてもしまうのに、肝心な、大切な言葉は発する事ができない。たった一言、ありがとうすら言えなかったりする。人は誰かと一緒に時間を過ごせば、必ず、感謝する場面が一日一回はある。どんなに小さなことでも。でも自分の親などの家族には、何となく”言わないこと”が当たり前になってしまっていて、そして「生きているうちに~」と後悔することも少なくない。
もし、自分に親以外の家族が出来たら、一日一回は感謝の言葉をちゃんと伝えたいと思っていた。その気持ちはずっと持っている。
そして今回、この作品を通して、その思いはより強くなった。
それはきっと、とても大切なことで。
本当は、親同士がそんなことを自然にしていたら、その子供たちもそう思って自然と感謝の言葉を言うようになって、きっと世界は今より幸せなんじゃないかと思ってしまう。
それだけの力が言葉にはある。
怖い力もあるが、優しい言葉は世界を幸せにする。
そう思わせてくれた作品。
場面は展開し、侑里が冒頭で、充希を郵便局に連れて行こうとしていて、ここで郵便局での場面になる。最初、侑里は高校生かと思っていた。そのため、健吾が助けてから、少なくとも4年くらいは経っているかと思っていた。でも、後に中学生と分かると、時系列も整理できた。
そしてここで、弥勒は侑里の事を覚えていない。侑里の事を健吾が助けたのが2~3年前と仮定して、弥勒の記憶はまだ、琴葉と出会う前、「ゼロ」にはなっていないとすると、琴葉と出会ってから、健吾が亡くなっているというのが分かる。そう考えると、思っていた以上に琴葉と弥勒の一緒にいた期間が長い。劇中だと、出会ってから付き合うまで、そしてあの日まで長いようには感じなかったが、そこに気が付くと、より、2人の想いの強さが、悲しみが分かる。だからこそ、崎野萌さんのラストの演技に繋がるのだろうが、それはまた後ほど。
この郵便局で、口寄せをしていた訳ではなく、そして口寄せの中で語ったことでもない、健吾の想いが、弥勒を通じて見せられる充希と侑里。充希は驚いている。
確かに、その想いはどこから分かったのだろう。本人が憑依したかのような姿。これは、口寄せとは違う能力なのか、一度口寄せした人間の記憶を断片的に読む、口寄せの中での能力なのだろうか。充希だけでなく、こちらも驚いてしまった。
しかしその場面で語られた「距離が縮まる度に気が沈んで、自分なんかが何を期待して・・」という語り。ここにも共感すると同時に、作中、詩的な台詞が出てくる素敵な作品だとまた強く感じた。健吾らしい感情。先ほども、名前の呼び方とかで健吾には共感したが、ここでも共感してしまった。自分は健吾のタイプなんだなと実感した。小石も蹴ってしまう事だろう。
健吾は人前に立っていた。色々あって島に来た。自分自身に自信を失ったのは明らかだ。だからこそ、自分に期待なんかしてはダメだめだと思ってしまう。
自分に夢を話してくれた。向けてくれる笑顔。これらに特別感を感じていたけど、本当は違う。きっと自分だけが特別なんかじゃないんだ。興奮して忘れていたけど、距離が縮まるほど歩いてきて、ふと、冷静になり、色々考えてしまい不安になってしまう。いっそ、一瞬で夏枝のところに姿を見せたなら、自信を失うこともなかったのかもしれない。そんな健吾の気持ちも分かった。やっぱり、こんな不器用な健吾は好きだなあ・・・。
そして弥勒と琴葉のシーン。玄田が語るシーン。玄田の言葉の一つ一つも、物語を読むような言葉づかいで、文学作品を読んでいるかの様でとても素敵。聞いている侑里も、そのように感じていたのだろうか。
全く関係ないのは分かっているが、琴葉が「前に勤めていた会社で色々あって」と言うシーン、崎野萌さんが夏に演じた「おやっとさぁ」という作品での役がフラッシュバックしてしまった。その役は、会社でパワハラに遭い、心が潰されそうになる。でも、逃げてもいいんだと、戦争で生き残った祖父に言われて感情を溢れさせた。そして心が完全につぶれずに済んだ。
「前に勤めていた会社で色々あって」。この”色々”という言葉を使う時、まあ会社を辞めているから当然だが、そこには辛いことがあり、ここに来たと分かる。しかし劇中で、そのことには一切触れていない。健吾は、人との関わりを避けたくてこの島に来た。でも、島の人たちのお節介に救われている。琴葉も同じような思いがあったのではないかと考える。
人に疲れ、楽しい思い出のあるこの島に来て、傷ついてしぼんでしまった心に、新鮮な空気を入れるために。幼いころに出逢っていた弥勒との再会。それこそ、迷子になった時のドキドキした気持ちを思い出して。
そう。
前説からの漫才で、士門が言っていた。吊り橋効果。幼い頃のその気持ちは、確かに吊り橋効果かもしれない。でも時を経て、また感じるその思いは、たとえ吊り橋効果が少し助けたとしても、その頼りがいのあった背中に感じた思いは、色あせることなく琴葉の心に舞い降りたのだろう。
だからこそ、「お付き合いしてくれませんか」と言われた時、顔を覗き込んで「喜んで」と見せる笑顔が生まれる。あんな風に自分が言われたら・・・もう、ますます好きになってしまう。
モテる女を演じることも多い崎野萌さんだからこそ、ああいう姿も違和感なく。
そして一転、母を亡くした悲しみにくれる琴葉。そして口寄せ。母と会えた後、決まりを破ったために訪れた悲劇。次から次へと変わる感情の波。その変化を、萌さんが巧みに演じる。琴葉の感情をしっかりと落とし込む。そして「1つだけワガママを聞いてほしい」と弥勒に言われ、放った「嫌だよ」の一言。
この「嫌だよ」はラストでも出てくるが、この時とはまた違うのが印象的。この時は、聞いてしまったら、うなずいてしまったら、本当に弥勒の記憶が失われていってしまうのではないか。そんな現実を受け入れたくない。最後の砦のような感情があったのだろう。この直前、「愛を失う」とまで言われている。認めたくないその感情。それが集約された一言。
少し余談になるが、崎野萌さんは、これまでも他の作品でも「嫌だよ」という台詞を言っている。もちろん、色々なシチュエーションだが、崎野萌さんのこの「嫌だよ」という台詞、個人的にはとても好きだ。そこに感情を集約したのもあるが、とにかく好き。今回の台詞を聞いて特に思った。どうやら大好物らしい。でも、コメディ作品で「嫌だよ」は聞いた覚えがない。コメディ作品でも聞いてみたいし、次に会う機会があったら「嫌だよ」を引き出してみようかな・・とさえ思ってしまう。
長尺の台詞もこなすし、短い単語でも印象に残る萌さん。これまでたくさんの作品を観てきたけど、一度も台詞を噛んだところを観たことがない。それは大野愛さんも同じ。丁寧に言葉を発する。だからこの2人が好きになのかと自分で改めて思う。
話がだいぶ逸れたが、弥勒の私書箱に思いをためて欲しいという願い。そしてそれに対して、毎日書くという琴葉。このシーンの萌さんの演技は、何度見ても涙が零れる。爆発した感情。「書くよ、毎日。毎日ここに来るから」そして最後の「だから・・」と言葉が続かなかった「だから」の重み。枯れそうな「だから」という言葉。この一言の発し方は、まさに萌さんの真骨頂。これだけこの言葉で、観る者の感情を溢れさせてくれるのは、やはり凄い。
この話を玄田がしているのは、侑里が来た時。そしてこの時、侑里を既に忘れている弥勒。つまり、もう数年の記憶が欠落している。でも、琴葉とはゼロにはなっていないことを考えると、琴葉も健吾が亡くなった時、島にいたということか。そんな時系列を配信で観ながら考えていると、また心を刺す言葉が舞台から放たれる。
嚮後(きょうこう)は何の前触れもなく失うものだ。人はつくづく悪い人はいない。自分を保つので精一杯。それが溢れてしまうから、人を傷つけてしまう。
その真理は分かる。自分にも経験がないとは言わない。そしてそれは、奏多がそうだったように、傷つける言葉を放ってしまう。
だから、この言葉にも共感していた。だが、昨年、逆に傷つけられた事があった。その傷は大きく、その人とは長い付き合いだったが縁を切る覚悟を決めた。
だからこそ言える。
溢れて傷つけてしまう気持ちも分かる。でも、傷つけられた方は、だからと言って決して許すことができるものではないということ。もしかすると、そのせいで今度はその傷つけられた人が、あふれ出てしまって誰かを傷つける負の連鎖になってしまうかもしれない。
自分は、そうなってはいけないと思い、どんなに傷が広がろうとも、他の誰かにぶつけるということはしなかった。負の連鎖を止めた。でも、そこで友人としての「時」も止めた。
奏多は、あの時ぶつけた相手が姉だったから、受け止めてくれる人で本当に救われたと思う。そして、この島の人たちだからこそ、溢れた感情を逃がしてくれるというのもあるだろう。だからこそ、健吾も琴葉も、傷ついた心が修復され、再び潤いを心に持つことが出来たのだろう。こんなところがあるのなら、自分も行ってみたいとさえ思ってしまった。今もまだ戻ったとは言えない心が、そう語りかけてきた気がした。
そして忘れていけないのが充希と静のやりとり。ここのやりとりは、本当に見ていて切ない。まだ中学生なのに、いや、中学生だからなのかもしれない。
2人のやりとりを書き出してみる。
自分の紡いだ言葉で傷ついている。
明日よりもひどい今が訪れなければいい。
慣れたら駄目。知らない内に心はすり減っているから。
優しくなんてしないで欲しい。だって望んでしまうから・・・どうしていいか分からないから。
もう少しだけ、自分を可愛がってあげよう。
いじめられているわけではない。ただ、友達がいなくて孤立しているとは言える。でもそれも、自分が望まないようにしているという現実。
こんな思いを中学生にさせたらダメだ。せめて、もっと大人になってからでないと、心は簡単にしぼんでしまう。しぼんでしまった心を戻すのは困難を極める。
優しくされたら望んでしまう。それでいいのに。どうしたらいいのか分からないなんて。
大人になると、優しさには打算があるのではないかと勘ぐってしまう事も多くなる。大人になってできる関係は、友達に発展することが多いとは決して言えない。学校と同じように、”同僚”なのに。そんな思いをするのは大人になってからでいい。
そんな充希に訪れたのは、最高の縁。侑里と静。この縁を大切にしないといけない。
充希が変わることが出来たのは、笑顔になれるようになったのは、お母さんと呼べるようになったのは、人の優しさを疑うことなく受け入れ、どうしてたいいかなんて悩む必要がない、「ありがとう」の気持ちでいいんだ。なにか返さないといけないとか色々考えないでいい。そう分かったからなのだろう。お節介な優しさ。これが、この島では何人もの心を救っている。
今、ふと思い、過去に自分が書いた観劇の感想をみてみたら、「TSUKUMO」も「嘘神」も書いた形跡がない。確かに年末から年明けはいつも忙しいが、書いてないことに驚いた。
それでも印象に残っているのは、場面展開の多さ。時間も場面も、色々と変わるという印象。一度観ただけではついていけないという印象。
そしてそれは、この「印」でもそうだった。
物語はさらに展開していく。
忘れていく弥勒。しかし琴葉の話しかしないと言われ、嬉しそうな琴葉。本当にこのまま忘れてしまうのかとさえ言う中、琴葉は幼いころに弥勒に助けてもらっていた事が、ここで明かされる。
「好きになったのは、私の方が先かもね」
この言葉が、琴葉の幸せな日々を感じさせる。自分だけが持つ秘めた思い。いつ明かそうか。そんないたずら心もあったかもしれない。それなのに、それは失われてしまった。
それがどれだけ大きな喪失感を生んだか。
きっと、演じていた崎野萌さんは、その琴葉の想いを、小さな心の隅にあるような感情もすくいあげ、琴葉を作り上げたのだろう。この台詞も何とも愛らしく、玄田にいじらしく話す姿は、前の会社で色々あったようには見えない。
ところが一転、すっかり消えた時、玄田も知らないふり、忘れたふりをして欲しいと頼む。忘れられたら本当の死という。覚えられている内はまだ生きていると言われる。そんな話をする。それなのに、敢えて忘れたふりをして欲しいと頼む。
弥勒に完全に忘れられること。それは自分にとって死を意味する。それまで弥勒と紡いできた自分はいなくなる。死を意味する。でも、まだ諦めていないと言う。
忘れられたら自分は死ぬ。そんな強い想いを持った覚悟なのだと思った。玄田に忘れて欲しいと言ったのは、その覚悟を見せるためではないか。微笑ましいやりとりから、ここまでの転換。可愛さと強さ。この二つを自然に表現した萌さん。だからこそ、この人の演技は好き。
そして楠季が倒れて生死をさまよい、悪趣味な神様と表現されるのを聞き、ああ、口寄せでの残酷なルールと重なるなあと思った。そしてそう感じたことで、同じように残酷な結果になってほしくないと願ってしまう。奏多はまだ間に合うと走る。
まだ間に合うというのは、悪趣味な神様に祈るだけではなく、まだ自力で引き戻せると思ったから。どうせ口寄せを使うなら、万が一の事があっても話はできる。想いは伝えられる。でも、間に合うというのは、何とかできると信じているから。その姿は、もう死を覚悟したと言っていた自分とは正反対。人の生きようとする力を信じてもいる。
そして口寄せを頼み、奏多も生きることに対する想いを吐露する。そして生きたいという2人の思いは奇跡を呼び、悪趣味な神様を退散させた。人の強い思いは、奇跡も起こす。それは、もしかしたら、弥勒と琴葉にも奇跡が起こるのではないかと期待を抱かせる。
続いて、夏枝と健吾の物語へと移行していく。
前野が健吾が離さなかったチケットを届けたことで、それはもう二度と離れないペアチケットになる。そのチケットは、元々、楠季が健吾に渡したものだった。
そしてその健吾に助けられた侑里が、粟生へ出したファンレターで士門との口寄せをしようと動き出す。
3つの物語が、不思議な縁でつながっていく。そしてそれぞれが、残された者が思いを伝えるため、動いていく。
そして始まる口寄せ。
奏多と楠季は、前述した通り、奇跡を起こす要因になった。
夏枝と健吾の口寄せ。
命を落としても不器用な健吾。それを夏枝が、生きているときの2人のやりとりそのままに、言葉を交わしていく。
「女っていうのは、愛されて自信をつける生き物なんだよ。自信、つけさせてくれないかなあ」
この台詞の後半部分、大野愛さんの言い方が本当に夏枝だなと感じた。この台詞自体、こういう言い方、夏枝がするのは全く違和感がなく、むしろ言いそうなんだけど、後半部分のためと強さが絶妙で、あの言い方以外は合わないなと思うほど。
そして「今だけでも笑顔にさせてくれないかな」という夏枝に、「言ってもいいんですか」という健吾。こんなやりとりを何度も見せてきたが、最後の健吾は違った。夏枝も「だから・・・」と言いかけたところをさえぎるかのように、「好きでした!!」の一言。
過去形なのがまた悲しく涙を誘う。
今でも好きなのは分かっている。それなのに、過去形にせざるを得ないという現実。もう、自分は現在進行形で好きですと言えない。幸せにできないから。だから、過去形になってしまう。現在進行形だという証明は、最後の言葉、「幸せになってください。世界中の誰よりも」という言葉に尽きる。自分はいなくても、幸せになってほしい。
夏枝は、その瞬間、愛されていると実感し、そして、夏枝の言葉を借りれば自信がついたのかもしれない。幸せになるため、健吾にオリオン座の近くから見守って貰っていると思うと強くなれた気がして、夢へと走り出したのだろう。
健吾との最期の約束、幸せになるために。
そんな健気に生きる一輪の花のような夏枝。派手さはなくてもその存在感があるのは、きっと大野愛さんが演じたからだろうと思う。
そして羅生門の2人の口寄せ。
肉親、愛し合う男女ときての、家族以上の友達という関係性。
愛には色々な形があるということを見せてくれる。これも盆栽サイダーさんの作品の特徴だなと思ってる。
漫才コンビらしい掛け合いなのに、「逆だったら、絶対に言ってないからな」という一言が刺さる。きっと、そうだなと思ってしまう。男同士、友達であり戦友である相方に言えない。言ったら、夢を潰してしまう。そんなことじゃない。きっと、自分の事のように泣いて悲しんで、それこそ、夢よりも自分のことを考えてくれてしまうだろう。そんな風に考えてしまう。大げさではなく、それだけの絆の強さがあるから。2人の絆の強さは、わずかな上演時間の中でもしっかりと伝わるように描かれていた。だからこそ、このシーンはとても歯がゆく、一方で羨ましくも思う。こういう関係の友達がいるという事に。
しかし、これまでの年末での公演、最初に観た時に、赤い髪でインパクトがあった平野創也さんが気になっていた。その後も、盆栽サイダーさん関係の作品も観たけど、会うのは年末だけで、それでも毎回気になっていた。今回の役も好きだったけど、毎回、不思議と力を貰う感じがしてた。
いつも年末から年明けの忙しい時期だけに、作品を観て満足してしまい、そしてあまり男性の役者さんはフォローしていないんだけど、今回、この感想を書いている期間中に、ようやく平野さんのSNSをフォロー。フォローバックまでしてもらって嬉しい。
演技の巧さで好きとか、人柄で好きとか、人は色々な理由で好きになるけど、「とにかく観るたびに気になる」でもいいんじゃないかなと思っている。感覚的な、本能的なものだから。理屈で語れる素晴らしいところは、これから探していけばいい。
次の公演は、まだ仕事の関係で日程が読めず予約できないのが悔しいけど、なんとかなるなら行きたい。
そして、物語は、羅生門の別れ、「最高の人生にしろよ」で締めくくられる。
これは、まさに健吾が夏枝に言った言葉と同じ。愛とはこういうものだと実感させられながら、物語は最後の口寄せへと進む。
それにしても、この3つの口寄せ、面白かった演出は、口寄せで呼ばれた人たちが、帰る時は扉を潜る仕掛けになっていたこと。
劇中の説明では、見た目は弥勒の身体のまま、魂が乗り移って話すという。でも、舞台に限らず、こういう話では、本人の姿に変える演出をするのが当然。そういう意味では、これも当然の演出。
しかし、映像作品であれば、スッと消して元の姿に差し替えればいいが、舞台ではそうは行かない。だからこそ、”魂”を表現したのだろう。走ってきて、扉を開けて来た時に、姿は変わっていた。実際、開けたのは弥勒の身体であろうし何もおかしくない。ただ、口寄せが終わって、魂が帰っていく時は、弥勒の身体はその場に残らないといけない。それもあり、魂が消えていかないといけないが、ただ舞台の袖にはけるのではなく、扉を開けずに通り抜けさせることで、魂が帰っていたのだと言う印象に変わる。
そして、これにより、本当に姿も変わって見えるという奇跡が怒っていたのではないかと思わせられた場面が、二回目に観た時、郵便局で健吾が亡くなるまでのシーンを侑里たちが弥勒から見せられた部分。侑里が「今のって・・・」っていうのは、単純に弥勒が語って、仕草を見せただけではなく、そこには健吾の姿が見えていたのではないか。口寄せしたいという健吾に意思確認をして断られた際、それでも健吾から得た記憶があり、そしてその姿を見せていたのではないかと感じた。もしくは、簡易的な口寄せで、記憶だけを健吾から借りて見せたのか。終わった後の苦しそうな様子からもそう感じてしまった。
もし、口寄せの瞬間、本人の姿が見えていたら・・最高だなと思う。
そうして、最後の口寄せ。琴葉の依頼した弥勒への口寄せ。物語序盤へと繋がる。
成功するかもわからない口寄せ。それでも、そこに賭ける琴葉。
聞こえてくるchaAさんの「針と糸」による音楽、最初の「やっと会えたね」のフレーズ。
これまでも舞台でchaAさんの歌声は聞いていた。とはいえ、作品の色にあった雰囲気の曲くらいの印象だった。特に、この二年間は、年末の多忙な時期で週末の休日出勤と重なり、1回しか観劇に行けなかったのもある。でも今回は、これほど作品の、このシーンにピタリと合うフレーズから始まり、そしてメロディまでもここまで合うなんて、奇跡だとさえ思った。
このシーン、配信でも何度も観た。このシーンだけ何度も観てしまった。曲の長さは5分弱。そこに詰まった何とも濃厚なシーン。やっと会えて、貴重な時間の冒頭、見つめ合う二人。この時、「やっと会えたね」のフレーズがより深く心に刻まれる。
そして「君からほのかな幸せを奪いたくなかった」「僕なんかよりずっと主要な存在だろうら」という弥勒の優しさ。しかし自分が思った優しさは、決して琴葉にとってはそうではなかった。すでに弥勒がどれだけ大きな存在だったか、必要な人だったかを弥勒自身が気づいていなかった。それも含めて、弥勒の優しさなのだが。
そして感情、自分の想いを爆発させる琴葉。これまで、自分の存在を忘れて欲しいとまで言って覚悟を決め、そして私書箱にためた思い。一日一日と消えていく日々、消えていくごとに募る想い。これらがどれだけの物か、それは琴葉自身にしか分からない。
だが、その想いを、崎野萌さんだからこそ、表現がしっかりとされていたと思う。
琴葉の想いを汲み取り、爆発させる。
あふれ出て抑えきれない感情は、身体の震えで観ている者にも伝わる。そしてその手は、やがて胸の前に行き、それは祈っているかのようにさえ感じる。
爆発する感情、時には傷つけてしまうこともこの物語では伝えている。それを知ってから見ると、まるで爆発しすぎて傷つけるのを抑えているかのようにも見える。いずれにしても、そこには、なんとか想いを伝えたい。その祈りが感じ取れる。
だからこそ、弥勒が「雨が降ったらどこかで君が濡れないかと心配だった」と語り始めた時、少しずつその手は徐々に下りて行った。
そしてバックに流れる「針と糸」。観劇中も気になるフレーズがあったけど、改めて歌詞を振り返ると、弥勒と琴葉の両方の視点での想いがあるように見えて仕方がない。
そしてそう感じるフレーズがちりばめられた間にある印象的なフレーズ。
「出会いを悲しみと、想いを過ちとくくられてしまうのならば」
弥勒に訪れた悲劇。琴葉と出会わなければ、琴葉を苦しめることはなかった。想いを抱いたことが、悲しみをより増幅させてしまった。
「この夜が終わらなければいい」
口寄せをしている時間。悲劇が伴う厳しさがある闇もある時間。でも、この時間が終わらなければ、消印を押さない代わりに2人は世界から断絶されてしまったとしても、この時間が終わらなければいい。
「終わらない罪と罰の中で」
記憶を失い続ける弥勒。でもその優しさを罪と言うならば、そして受けた罰だとしたら。罪というには酷だけれども、しかし終わらないという事には代わりがない。
「君だけが君だけが紡いでくれたんだ」
私書箱に想いをためる琴葉。毎日書く手紙。これを紡いだと言わずなんと表現すればいいのだろう。
「さよならと幸せがゆくりなく 巡り合う愛の裏で あの鼻歌や舞った綿毛が離れない」
このゆくりなくという言葉は、口寄せが終わった後にも使われる印象的な言葉。ゆくりなくとは、思いがけないとか不意にという意味。
さよならも幸せも、確かにゆくりなく訪れることもある。さよならを「悲」とするならば、「幸」とは対照的なものとなる。それでも、共通している事は、そこには愛があり、思い出があるということ。さよならでも幸せでも、その思い出は消えることがない。対照的なものなのに、共通したものがある。まさに、分岐するそこまで一本道だったのに、ふとした時に道がたがえてしまうこともある。
それを、弥勒も後で琴葉に諭す。
そしてこの曲をバックにしながら、琴葉の「嫌だよ」という言葉が出てくる。先に書いた通り、弥勒が一つだけワガママを聞いて欲しいと頼んだ際にも使われた「嫌だよ」という単語。しかしあの時は違う。あの時は、聞いてしまったら本当にそうなってしまうという思い。それは、どこか信じられない気持ちと、まだ別れていなかったからの「嫌だよ」。でも今は、一度忘れられて、”ゼロ”になって、”弥勒の中から自分の存在が死を迎えて”、別れを経験してからの「嫌だよ」。それはもう重みが違う。
そしてこの後、玄田に「どうなるか分からない」と言われて、最悪のことも頭をよぎって、押さないといけないと分かっているのに「嫌だよ」。
この「嫌だよ」だけ聞いても、琴葉の心がスッと観ている側に入ってくる。そんな使い分けをしている萌さん。それぞれの言い方も凄く好きだし、だからこそ、毎回楽しませてくれる。
そして最後、「笑って歩いたら会えるかな」の歌詞のところで、消印を押す。だがその後にも曲は、「早くいつかになって」と続く。これが最後、そのいつかが訪れるとは、この時思わなかった。
そして別れをした後、良い別れを出来たか尋ねられる琴葉。弥勒は、先に行なわれた口寄せの時と同様、涙を拭っている。
思えば、この涙は何なのだろう。
やはり、口寄せの最中、弥勒には呼び出した人間の記憶が宿るか、やりとりを見ているとしか思えない。そうだとしたら、先に書いた、健吾の記憶が弥勒には自分に落とし込むことができることと繋がる。
そして琴葉と再会して、別れを迎えた時も変わらない様子だった。それは逆に、弥勒はあくまで他人として弥勒を感じていたのだろうか。あくまで、第三者として。
口寄せの時、あれだけ感情を見せていた弥勒が、その記憶が宿っているのであれば、それまでと同じ程度の涙で済むだろうか。
ふと、そんなことを考えてしまった。
そして涙を拭った後、良い別れが出来たか分からないという琴葉に掛ける言葉。
「かえりごとはゆくりなく 誰にだって何が待ち受けているか分からないのだから、きっと、大丈夫」
かえりごとはゆくりなく、最初はかえりごとイコール口寄せの事だと思っていたけど、それだと、イマイチ意味が繋がらない気がしてきて改めて調べてみた。すると、「かえりごと」には、「もらった手紙や和歌、また、質問に対する返事」とある。
こっちの方がスッと入ってきた。
手紙がキーとなっているこの作品。そして手紙を使った口寄せ。もし、よい別れができていなかったとしても、いつになるか分からないけれど、手紙の返事がゆくりなく来るかもしれない。
何が起こるか、何が待ち受けているか分からない。
そう言うと、ネガティブに、不安に考えがちだが決してそれだけではない。不安に思う必要はないんだ。もしかしたら、たくさんの小さな嫌なことを吹き飛ばしてくれる大きな幸せが訪れるかもしれない。
そう思ったら前を向いて歩ける。
それこそ、もう会えない人とも夢の中では会える。そう感じた事だが、まさに、かえりごとを夢で貰うかもしれない。他人から見たら夢の中の出来事かもしれないが、当人がそれをかえりごとと思えば、それはきっとそうなのだ。
それと、やっぱり手紙の返事は嬉しい。
今回、観劇時にお手紙を添えて差し入れをしたのだけど、応援グッズにあった招木に、その手紙を読んだ上での返事を貰えた。お手紙読んだよって書いてあった。劇場では何も書いてなかったので、手紙を書いていくと言っていたので返事のために残しておいてくれたのかな、なんて思った。
普段、お手紙を書くことはあっても、役者さんから返事を貰う事なんてないし、そして実際に貰うと、こんなに幸せな気分なんだと思った。
手紙には、不思議な力がある。羅生門の2人を再び繋げたのもファンレターだった。
この作品を観て、手紙を書きたくなったことは少なくないのではないだろうか。
そして物語はラストへ。それぞれが前を向いて歩き始める中、琴葉も前に進もうとする。
弥勒に「玄田さんのお知り合いですか」と聞かれ、「はい」と答えている。
知り合いでないことにして欲しいと言っていたのにも関わらず。
その意味は、きっと、弥勒の言葉によって、前向きになれたからだろう。何が起きるか分からない。最後の「大丈夫」にこもった力強さを感じ取り、訪れるかもしれないその時を待ち続ける事にしたのだろう。それは、ある種、覚悟だと思う。でも、それは忘れてもらうことによる死を覚悟した時はまた違う覚悟。それは、琴葉が見せた表情からも見て取れる。前を向いて歩く決意をした表情。そんな琴葉の感情を理解したからこそ、萌さんはあの表情を琴葉の表情にしたのだろう。
それにしても、「玄田くん」だったのが「玄田さん」になっているのも気になる。玄田とも出会ってまだそんなに時間が経っていないところまで戻ってしまったのだろう。劇中で、玄田もいつか自分の事も忘れるのではないかと言っていたが、その時もまさに近づいていた。
だが、最後、琴葉と幼い頃に出逢っていた事を思い出す弥勒がいた。
一周目の出逢いでは思い出せなかった幼い頃の記憶。
それは、記憶が少しずつなくなっていくことで、昔の記憶と現在の距離が短くなり、幼いころの記憶にたどりついたのではないか。
記憶を失った事で得られた奇跡。出逢い方は変わってしまったが、再び琴葉と巡り合えた。
「針と糸」の最後のフレーズである「早くいつかにになって」のいつかが訪れた瞬間だった。
最初から疑問に思っていた。
明日には今日を忘れていくとしたら、明日の記憶はどうなるのだろう。今日の分と明日の分を忘れてしまうのだろうか。それとも、明日の記憶は残るのだろうか。
いや、明日の記憶が残るのであれば、琴葉のことを完全に忘れることはない。境となった日より前の記憶はなくなるだけで、新しい記憶は残るというのは、出逢い方は忘れたけど、なぜか今は付き合っているという感覚になるはずだ。
そうなると、今、幼い頃の記憶を思い出した出会いも、明日には忘れてしまう。
普通に考えればそうだが、こんなことをする悪趣味な神様のこと、きっと、記憶が消えていくのはこの日で終わりで、ここからは記憶、そして思い出は積みあがっていくのではないかと思う。ルールを破った禊を終えたギフト。それがこの三回目の出会いだったのではないかと思う。そう信じたい。
この公演の前、大野愛さんがSNSで、「この話が好きです」とストレートに書いていた。今、その気持ちが本当によくわかる。
この作品に出会えたことも一つの奇跡だと思っている。
今だから、TSUKUMOや嘘神をもう一度観たいと思ってしまう。
この「印」という作品。もっと多くの人に観て欲しいと思った。それこそ、昨年までの武蔵野芸能劇場でと思ったけど、あの舞台の作りだからこそ良かったというのもある。難しい所だけど、日程にも恵まれて複数回行けて良かった。
「針と糸」はまだ配信リリースされていないみたいだけど、できればいつでも聞きたい。とりあえず、chaAさんの配信リリースされてる曲は全て購入したけど、やっぱりこの人の曲の雰囲気は好き。TSUKUMO・嘘神でも感じていたけど、舞台の曲となると、今回の様に作品と完全に一体化した時、その相乗効果は計り知れない。
この作品の公演を知った時から楽しみだった崎野萌さんと大野愛を中心にした感想になってしまったけど、「ラブレター」で名前を覚えていた下野歌音さんなどの高校生役4人も印象に残ったし、全ての役の人たちが目を閉じれば脳裏に浮かぶ。
今、そしてこれからも、自分の人生は続く。
それこそ、自分に、人生に問いかけることもある。「針と糸」の歌詞のように、生まれてきた意味が分からなくて、平凡な毎日に生かされるその意味を。
でも、そんな問いの”かえりごと”もゆくりなく、そして誰にだって何が待ち受けているか分からないのだから、きっと、大丈夫だと信じて、生きていこう。
そう思えた作品でした。
次はどんな作品に出会えるのか、楽しみに生きていこう。
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