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命の重みとは -竹林に誘われて-

 竹林に足を踏み入れる。毎年の年中行事。尺八用の竹を採る、この行事。私は、ただ採るような事はしない。一本一本の竹と対話をしながら、奥へ奥へと足を進める。どんな理由であろうと命を奪う事には変わりない。この行事はとても神聖な儀式である。

 命を軽んじてはならない。どのような命でも重みは一緒なのである。命を絶つ事はどのような事でも罪なのだ。だからそれを次の命のためであったり、何かのために新たなる命を宿す行為は、もともとの命の熱量を、より強い次の熱量へと紡ぐ行為でありたいと思う。それが生きる責任ではないだろうか。

 竹林を歩きながら竹に声をかける。「採ってもいいですか?」「一緒に人生を歩んでくれますか?」「家に来てくれますか?」など。そして竹に触れてみる。肌触りにも相性がある。

 そうしているうちに、私は竹林の奥へと誘われていく。もっていかれるこの感覚に身を委ねると、決まって話を聞いてくれる竹の集落に出会う。静かな空間で、私を囲むように座って優しく包み込んでくれる彼ら、彼女らは、その集落から仲間を一本連れていく事を許してくれる。強い絆で繋がっている竹達から私のもとに来てくれる竹に心から感謝する。もちろん、竹林全体にも。

 根を切り、大事に竹を引き抜く。

 尺八へと命を繋ぎ、音、一音一音に彼ら、彼女らの命の重さを感じ、そして次の熱量へ。

 私ができる事など、ほんのわずかばかりの心を差し出すくらいの事しかできない。

 「空 ku」とは人間の無意識化の話でもなく、まして呼吸法でもなく、こうした絶え間なく起きる地球の現象一秒の中に在る命の重さの束を感じる事ではないだろうか。なぜならば、それは正に「在る」だけなのだから。

 私にとっての尺八の人生は、たんに演奏をすることではなく、こうした命と心の重さを大切に生き、伝える事だと感じている。それは、今回、一緒に竹取りを行った仲間たちとの出会いや、様々会話の中で確信した。感謝してもしきれない。

 竹と人との繋がりに感謝。

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