誰かの生活に想いを馳せる、
仕事を終えて、ご飯を食べて、洗い物をしながら、今日お会いした人のことを考える。
私が会うのは、何か悩みを抱えている人たちだから、私の前では大体みんな、苦しそうだったり涙を流していたり、険しい表情をしていたりする。(まぁ、あっけらかんとした顔で大変な日常を語る人もいるけれど。)
そんな人たちと1時間の話を終えて、また次回と見送って、私は仕事を終えて、帰宅して今、洗い物をしてる。
この時間に、彼らは何をしているのだろうか。
私は心理士という職の自分から離れて、私自身として日常を送っている。
お風呂に入って、ご飯を食べて、ビールを飲んで、洗い物もする。今からテレビやネトフリを観ようかな、ベッドでゴロゴロするのもいいな、なんて思っていたりする。
私がこんな日常を送る時に、いま、彼らは何をしているのだろう。
誰かとご飯を食べているだろうか。あの悩みの種の相手に嫌なことを言われているのだろうか。一人ベッドの上で思い悩んでいるだろうか。…意外とあっけらかんと楽しい時間を過ごしていたりして。
彼らがどんな時間を過ごしていたとしても、どうということはないのだけれど、こんなことに想いを馳せていると、私が会うのは本当に彼らの一部でしかないのだなと実感する。
そもそも、私たちが出会える相手との一瞬なんて、その相手からしたらほんの一部でしかないわけで。
笑顔でも泣き顔でも、悩んでる顔でも、私が知らない顔は確実に存在していて、私の知らない生活が確実に存在している。
そう考えると、自分が見て、知っていることだけで相手の全てを分かった気になって、判断してしまうのは、本当に失礼なことだろう。私の前では悩みをたくさん語っていっても、私以外の誰かと過ごしている時間が笑顔でいられるなら、生きていく力は十分に補給できるはずだ。むしろ、そのために心理士としての私が存在しているのかもしれない。
今日あんなにも辛そうだった彼にも、もしかしたら、ちょっとは笑える今があるかもしれない。
そう思うと、なんだか少しだけ救われる気もするのだ。