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【持論】情報発信者の「本当は教えたくない○○」について思うこと

1,はじめに

昨今はインターネット・SNSの台頭により、多くの人が気軽に情報発信できるようになりました。ここnoteは言わずもがな、XやYoutube、ブログなど、そのプラットフォームは枚挙に暇がありません。
そんな環境において、よく「本当は教えたくない〇〇」というフレーズとともに情報が発信されているのを見かけます。そんなに教えたくないのなら秘密にしておけばいいと思うのですが、そこに情報が発信されているという事実は、当人が隠すことができなかったことを如実に物語ります。
さて、本記事では、「本当は教えたくない〇〇」というフレーズはどのような心理状態で用いられるのか、そしてその情報を公開することの是非について考察します。

2,心理的背景

そもそも、「教えたくない」のに「教える」という事実は、一見矛盾しています。しかし、その心理的背景を考察すると必ずしも矛盾しているとは言い切れません。

というのも、「教えたくない」というのが当人にとって別の意味を含意していることが往々にしてあるからです。その代表例としては、情報の特別性の強調があるでしょう。要は、「この情報はとても貴重で、他人に教えることが惜しい」という心理状態を内包しているのです。
同時に、承認欲求の存在が考えられます。というのも、「教えたくない」情報を教えることで、自分の情報に価値があるものだと思わせることができます。それによって、評価され、自尊心が満たされることでしょう。さらに、これによって記事や動画の再生数の向上に繋がるかもしれません。

3,情報公開の是非

「本当は教えたくない」情報が、謳い文句やマーケティングによるものではなく、本当に貴重であると仮定すると、こうした情報の公開には一定のデメリットが伴う点に議論の余地はありません。

というのも、情報を公開することで競争が激化し、情報の価値が下がったり悪用されたりする可能性が考えられるからです。あえてこうした情報を発信するメリットは乏しいように思われます。

では、こうした貴重な情報は永遠に秘匿されるべきでしょうか
私は、これに異を唱えたいと思います。以下でその理由を述べます。

まず、前提として、「貴重な情報」について「知っている人が少数であるためにアクセスが難しい情報の中で、特に有益なもの」と定義付けます。「知っている人が自分一人である情報」については考慮しません(この場合はむしろ秘匿されるべきです)。

上記を前提とした場合、情報の入手には一定の困難は伴うといえど、可能であることには間違いありません。そして、その情報の有益性が明らかな場合、社会の中で一定数の人間はその情報の入手のためにリソースを割きます。具体的な例でいえば、図書館に足を運んだり、インターネットをくまなく閲覧したりといったアクションが考えられるでしょう。日本国内で情報が手に入らない場合、海外にまで視野を広げることでしょう。

情報の入手があくまで可能である以上は、こうした過程を踏むことで、最終的な情報の入手に至る人間がある程度現れます。これは、情報公開の程度に依存しません。

それならば、情報を持つ一人の個人が秘匿したところで何も変わりません。世の中に最低一人の情報発信者、即ち、「情報の入手が可能」な状況さえあれば何ら問題ないのです。

ならば情報発信によるデメリットに臆することなく、積極的に情報公開に努めて社会の発展に寄与しても良いのではないかと思うのです。むしろ情報を公開することで、情報の特別性の強調に拍車をかけ、評価されるかもしれません。




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