なぜ、金持ちほど寄付に走るのか?
金持ちほど寄付に走るのはなぜなのだろうか?
実際に、かのイーロン・マスク氏は2022年の2月、57億ドルもの寄付を行うことを発表したし、ジェフ・ベゾス氏も10億ドルもの基金設立を発表し、その規模の大きさに我々は驚かされた。なるほど、彼らの富は我々一般人の比しない程度に突出している。だが、それだけが理由ではないだろうか。
我々がここで考えるべきは、彼らが極端な例であり、あくまで特例であるという事実である。まず、全ての富裕層が彼らのように大々的な寄付を実行している訳ではない。多くの富裕層は、より控えめな寄付を行い、あるいは全く寄付を行わないといった行動をとる。しかし、なぜ一部の富裕層は大規模な寄付に走るのだろうか? その背後には何があるだろうか?
第一に、社会的評価が挙げられる。残念ながら、人間は社会的な生き物である以上、その行動には評価や信用、名声など、見返りを欲する傾向がある。富裕層が寄付を行う理由の一つは、高い評価と名声を獲得するためであると言える。
次に、その収益の一部を社会に還元することで、より大きな経済循環が生まれ、結果的には自身のビジネスにも良い影響を及ぼす可能性があるからだ。経済は個々の経済活動によって成り立っており、富裕層が大きな寄付を行うことで社会全体の経済活動が活性化する。その結果、自己の事業も広がる可能性がある。そのような視点から見れば、大規模な寄付は投資とも言える。
以上のように、富裕層が大規模な寄付に走る理由は多岐にわたる。
だがいずれにしても、突き詰めれば「自身の幸福のため」に寄付行為に至ると考えられる。
では、寄付行為と幸福との関係は何であろうか?
これについて深く考えてみることにする。
一説によると、人間の幸福と収入には一定の相関関係が認められる。この見解は、所得が増加すれば幸福感も比例して増えるという経済学者からの示唆である。
なるほど、確かに収入が増加すれば生活の質は向上し、それ自体が幸せを体験する上での重要な要素となる。しかしながら、これはあくまで一部の要素であり、幸福という概念全体を収入で説明しきることは不可能である。全ての物、あらゆる種類の幸福が金で買えるかと言えば、それは違う。人間の幸福感とは、物質的な要素だけではなく、精神的な充足感や人間関係、さらには個々の価値観など多岐にわたる複雑な要素が絡み合って成立するものであるからだ。
実際に、人間の幸福と収入の相関関係には限度があり、一定の金額を超えると幸福感の増加は鈍化するとされている。この限度額は研究者により誤差はあるものの、概ね年収75,000ドル(約800万円)とされている。
この所得と幸福感の関係性についての論述は、ダニエル・カーネマンとアンガス・デイトンの研究によるものである。彼らは、75000ドルを超える所得は、日々の喜びや満足感を増加させないと結論づけた。この点については、豊かな生活がもたらす影響についての生活の質という観点から見れば、その難解さが窺えよう。一定の経済的安定があると、人はそれ以上に物質的な追求よりも精神的な成長や自己実現に価値を見いだす傾向があると示唆されている。
また、所得を超えた幸福感の成長の鈍化について考察すると、これは社会比較という人間の心理的な側面から説明できるかもしれない。人々は他人と自分自身を比較し、自分が他人よりも優れていると感じると幸福感を感じるという。しかし、所得が一定レベルを超えると、そのような比較の必要性が減少するとされている。これは、材料的な保証があると、人々は他人との比較から自由になり、より内面的な満足を追求する自由が生まれるからであろう。
同時に、「限界効用の逓減」からこの関係を説明する向きもある。
つまり、一部の経済学者らは、人の収入が増えることで得られる幸福感は、ある程度増加した後、次第にその増加率が減少し、最終的には飽和点に達すると主張する。この飽和点とは、もはや収入が更に増加してもその結果として得られる幸福感はほとんど増えない、つまり「限界効用」に達した状態を指す。
余談だが、この理論は特に資本主義社会において重要な意味を持つ。消費者としての我々は、商品やサービスを購入することで幸福を追求する。しかし、その購入に対する心理的な喜びや満足感は、多くの場合初めの数回までが最も大きい。さらなる同じ商品やサービスの購入は、その限界効用の逓減をもたらし、結果的に我々の幸福を増加させる能力は低下する。
いずれにせよ、無制限の物質的な富によって完全な幸福が達成可能であるという考え方は、経済的・心理学的な観点から見れば誤りであると言える。所得と幸福との関係は一概には決めつけられぬものであり、各人の価値観や心のあり方、それぞれの生活状況や社会環境等、多種多様な要因が絡み合って確定するものと考えられる。そこには決して金銭的な豊かさだけではなく、精神的な充足感や自己実現といった、量的な評価が難しい価値観が深く関与しているのである。このように幸福と収入の関連は必ずしも直線的ではない。例えば、人間の基本的なニーズを満たすための最低限の収入が得られていない場合、不安やストレスから幸福感を感じることが困難になるだろう。また、金銭への依存度が増すほど、他の幸福源(人間関係や自己実現等)に対する広がりが失われ、結果的に幸福感が減少するパラドックスも報告されている。
なるほど、裕福であることが幸福に直接つながらないとするならば、自身の金銭を削ぐ行為である「寄付」にある程度の合理性が認められる。寄付を行う富裕層は、目先の "金銭による幸福" ではなく、社会的な影響力や名誉、自己実現を求めているのだろう。難民救済や環境保全など社会的な問題解決に資金を提供することで、自己の存在意義を確認し、社会的な認知に寄与する。しかしこれもまた、ある種の幸福感と直結していると言えるだろう。
要するに、一定の収入を超えると幸福感の増加が鈍化するという説は、裕福な人間が寄付を行いやすい社会的事実を合理的に説明する。それは、物質的な豊かさだけでなく、社会的な影響力や自己実現といった、より高次元の喜びの追求が寄付行為に関与していることを示唆しているのである。
かの福沢諭吉はこう言った。「天は人の上に人を作らず」と。
これは、全ての人間は天から平等に与えられた存在であり、誰もが同等の尊厳と価値を持つという考え方を示している。この視点からすると、裕福な人々が寄付を行う背後には、「社会の中で得た自分の富を、同じ価値を持つ他の人々に還元する」という思いが存在すると解釈できる。
また、これは裕福さという状況が、その人に対する社会からの期待を孕むものであることも示している。裕福な人々が物質的に恵まれた状況にあることは、他者への援助を可能とする特権であるとともに、他者との間にある差異を意識させ、寄付行為に繋がる可能性を促進する。そのため、「富」は個人だけのものではなく、共同体全体を豊かにするための道具となり得るのである。
福沢諭吉の「天は人の上に人を作らず」という言葉は、その基本的人権思想を簡潔に表現している。そして、その思想は裕福な人々が財富を社会へ還元すべきだという考え方とも一致している。富裕層が寄付を行う行為は、福沢諭吉の思想が示す通り、資源が共有され、格差が縮小されることで全ての人間が平等となるという理想の一助となるのである。