星野源さんがけっこんして、どうしてそんなに落胆するのかがわからない。話(ミニ)
つい最近、源さんが新垣結衣さんとご結婚された。超おめでたい!
そんななか、やっぱり芸能人にはつきものなのかな…ファンの声がたくさんあったみたいだった。「源ちゃんロス」とか「ガッキーロス」とか…
芸能人って、「さらしもの」なんだな。つべこべ言われるのも込みでのお仕事なんだろうな。と遠くからみていて、ちょっと感じた。
わたしは、個人的に星野源さんのうたがとっても、好きだ。全体的に、すきだ。
だから、源さんが結婚。しかも”逃げ恥”で共演していた新垣結衣さんだときいて、一瞬
「?」
となり、「えっ!!うわぁ~。」
もう一度見て、
「えっ!!(マジ?!)うわぁ~~~!!!(すごい!!)」
何度も何度もその事実を反芻して、「うわぁ~~~まじか~!(すげー!!)」をやった。(笑) なんかわかんないけど凄い。不思議で楽しくてううれしくておめでとうで、それと同時に
「何も変わらないなぁ」などとも思ったりした。
何も変わらないよ、わたしの日常。ただ祝福だけが残った。
好きな人がしあわせになってくれたら、やはりうれしいものだ。しかも、源ちゃんみたいな人だったら尚更のことうれしい。とてもいい感じだ。すごくお似合いだと思ったから、うれしかった。
わたしは、「雨音」って曲が好きなんだけど、「湯気」って曲も好きで、アコギで弾き語りの曲もよくきいた。よく泣いた。だから、やっぱり変わることはないんだろう。わたしにとって、源ちゃんはシンボルでしかない。
この「すき」は、独占したいすきでもなく、ましてや恋愛したいの好きでもない。ただ、人柄とかしゃべることばとか、たのしい変態話とか、源ちゃんの周りにいるたのしい人たちとか、雰囲気とか、曲とか、文章とか、フォルムとかがすきなだけで、それだけで存在それだけでうれしい存在なのだ。
ただ、すきに遊びまわっている姿をみるのが、すきなだけなんだ。
ってわたしは、いま、気がついたよ。それすらも愛おしい。うれしいのだ。
ただ、このひとたちが楽しそうに遊び回っていることが、わたしのなかできらきら光る雨粒を見たときみたいなきらめきなのだ。希望みたいな光みたいな、きらきらひかる雨粒が彼らなのだ。
眺めているだけで、与えられているのだ。
ちょっとばかり極端かもしれないけれど、きっと、そんな感じなのだ。
そして、そんなふうにかんじることができる自分自身の光がとてもすきで、大切にしたいと思っているから、気づかせてくれる存在に感謝している。じぶんのすきなところをすこしづつ満たしているのだろう。集めてたしかめているのだろう。
ありがとう、源ちゃん。これからも応援しています。