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被爆三世、母になって

こんにちは😃
今年8月、平和スピーチコンテスト一般の部にて入賞致しました(平和へのメッセージfrom知覧 第35回スピーチコンテスト)✨✨
日本被団協のノーベル平和賞受賞を受け、被爆三世(被爆者の孫)として、公表させていただきます。(下記の「被爆三世、母になって」)
鹿児島県南九州市知覧町は特攻隊の基地があった場所で、毎年8月15日に平和スピーチコンテストが開催されています。


「被爆三世、母になって」(2024年5月応募)

 2022年6月7日、広島の被爆三世にあたる私は男児の母親となった。6月22日、実家に突然信じられない客が訪問してきた。酸素ボンベを引いた当時92歳の祖父である。横浜の住居から川崎の実家まで、一人でやって来たと言うのだ。15歳の時、広島で被爆し生き残った祖父。そんな祖父のお目当ては生まれて15日目のひ孫だった。「うわあ、小さいなあ」とひ孫を嬉しそうに抱く祖父と祖父を見上げる息子。絵に描いたような平和な光景である。この祖父がいなければ息子はこの世にいなかったのだと改めて思った。祖父は今年5月、94歳で亡くなった。

92歳の祖父と生後15日目の息子

 1945年、祖父は15歳で陸軍幼年学校在学中、広島で被爆した。陸軍幼年学校は陸軍幹部の養成学校である。在校生は疎開中で、直接被弾はしていない。祖父は8月7日夏休み最終日、広島の爆弾投下を聞きつけ、同級生十数人と共に広島市内に入った。広島市全体は焼き尽くされ、あるのは瓦礫と死体と大火傷の負傷者。その様子を祖父は「地獄だった」と語った。水槽には勤労動員の女子中学生らの死体が溢れていた。子を失い狂気の母親達、必死で親族を探す人も多かった。地面にうずくまる負傷者が靴に手をかけ、「水をください」と声をかけてきたが、水をあげるとすぐに死んでしまった。市内の焼死体は爆心地に近づくにつれ炭のように黒焦げの死体だらけになった。学校は広島城のお堀の外側にあり、爆心地に近く、校舎や宿舎など全てを失っていた。ただ校門のみ、かろうじて焼け残った。もし学校にいたら、即死だった。8月6日広島市内で入院中だった同期生6人が、後に原爆症で亡くなった。祖父は広島の地獄の光景を50年間ほとんど語らなかった。私が中学の課題で聞き取った時、初めて詳しく話してくれた。

 2023年5月、G7首脳が広島訪問するのをテレビで見た時、世界から核兵器が消えていない事を息子に申し訳なく思った。核兵器のために息子の未来がなくなるのはいやだ!戦争で息子を兵士に取られるのは絶対にいやだ!その思いが日増しに強くなった。
同年11月末、私も何かしなければと思い、息子を預けて広島に向かった。祖父が通っていた陸軍幼年学校跡と平和記念資料館を訪問したかった。まず平和記念資料館を訪問し、展示物を見学した。大火傷をして苦しむ子供、黒焦げになり亡くなった子供の写真を見て、自分の子供だったらと想像し、涙が止まらなくなった。子供を失う悲しみと命の重さは、親にならなければきっと分からなかっただろう。私は次に祖父の通っていた陸軍幼年学校跡地へ向かった。広島城のお堀の外側、松の木々の中に陸軍幼年学校の焼け残った校門の門柱と石碑が立っていた。1971年、卒業生が劫火に耐えた校門を修復し残したものだった。祖父が青春を過ごした学校の校門に直接触れ、原爆投下が実際の出来事である事を痛感した。私は夢中で写真を撮り、家路についた。

1945年、15歳の祖父が通っていた「広島陸軍幼年学校」の校門の門柱

1か月後、私は撮影した陸軍幼年学校跡の写真を見せながら、再度祖父から被爆体験の話を聞いた。祖父は当時15歳でまだ幼く、「お国のために死のう」とまでは思っていなかったそうだが、「死ぬのは当たり前の時代だった」と語った。戦争のない平和な世界があるとはまるで知らず、「国にだまされた」と思ったと悔しそうに語ったのが印象的だった。これが最後の聞き取りとなった。

 昨今は情報が溢れている時代にあって、国やメディア、SNSに踊らされず、真実を自分で見極め知ろうとする努力が大切だ。「だまされるな」これが祖父からの教訓である。情報に踊らされていつの間にかまた戦争に向かい、たくさんの人々が死ぬ悲劇につながってはならない。ロシアのウクライナ侵攻以降、核兵器が実際に使用される恐れもある世の中になってしまった。自分達が今住んでいる町の上に核が落とされるかもしれない。広島や長崎、それ以上の被害が出るかもしれない。国民は「お国のために」死んでいい虫けらではないし、攻撃されて死んでいい人間は一人もいない。一人一人に母親から授かった命があり、家族があり、友があり、たった一度きりの人生がある。子供達が戦争や核兵器で命を落とすなど、絶対に受け入れられない。「戦争はいらない、核兵器はいらない」この思いを胸に、私も被爆体験伝承など、平和を訴える活動をしていきたい。母親として息子にもしっかり伝え、息子が戦争について自分で考え、自分の意見を発信できる力を備えた大人になってほしい。それが、母、私、息子へと命のバトンをつないでくれた亡き祖父への最大の恩返しになると思うからだ。

スピーチコンテストの賞状楯とともに


スピーチコンテストの賞状楯

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