じぶんの生き様こそが、この人生で最も価値あるもの
今日の「今日はどんなことをしてじぶんを喜ばせたい?」の答えは、おさんぽだった。
ということで、今年に入ってはじめてのおさんぽに行ってきた。
去年の12月ころ“なにもしない”時間を作るようにしていたころは、毎日のようにさんぽに行ってた。
今年からマンダラルナーというブラジル生まれのダイアリーを使うようになって、じぶんを上向きにしてくれる習慣を記号で毎日記すようになった。
ところが“さんぽ”のマークは今年に入ってから一度も書き込まれたことがない。
1万5千歩くらい歩いたみたいで、足もいい具合にクタクタ、そして眠い。
晴れてあたたかくて、ひさしぶりに歩けて楽しかった。
黄色や緑の葉に混ざってオオイヌノフグリが、まだ眠そうなしわしわの花びらを広げていた。
夕日が照らす水面には、ひとのような声で鳴くかわいい白鳥も見ることができた。
不染鉄という、幻の画家を知った。
「画家としてやっていけると思えない」と自信をもてずにいながら、諦めきれず美術の学校に入り直す。
そして没後に評価されるようになった画家だ。
彼は「静寂なこころに美しさは映る」という言葉を遺し、じぶんと対峙しながら作品を創ったと言う。
もともとお寺の子として生まれながら、妻帯を禁じられていた手前、出自を隠されながら育ったことで、不良少年だったらしい。
彼が越えてきたものを想い、そしてじぶんと向き合いながら生涯をかけて絵を諦めなかった姿に、励まされる想いがした。
彼はまたこんな言葉も遺している。
「こころのこもった絵葉書は立派な芸術作品だ」。
彼の日常の暮らしのなか、そして庶民の営みのなかにも“美”を見出す感性に感銘を受けたし、わたしも人生、いのちそのものがアートで、ひとりひとりがアーティストだと思っているから、そんなふうに世界を見つめる目を持ち続けたいと思った。
表現活動をしていると、じぶんの想いとはうらはらに、あまり共感してもらえなかったり、思っていたようなリアクションがもらえなかったりして、がっかりしたり悔しい想いをしたりすることもあるものだ。
こういうひとに読んでもらう場だけじゃなくて、日常のやりとりにもそれを感じてしまう。
そのたびに、じぶんのこころと向き合い、本心が露わになるのを目の当たりにして、そんな素直なきもちも、願いも受けとめていこう。
またそういう一喜一憂は、その道を歩んでいる証で、そのステップひとつひとつを踏めている喜びや楽しみがあるなと思う。
そして、じぶんのやりたいこと、好きなこと、なりたい姿、憧れは、願いつづけて、行動しつづければ、目指していた本来の場所とはちがうかもしれないけれど、“そのあたり”には行けるのだろう。
生き様は、死んでしまえば残らないけれど、作品は残る。
作品にそのひとの生き様が宿るような、そんな作品を生きている間に創っていきたい。
すぐには評価されなくても、死んでからも埋もれてしまうとしても、魂を込めたものをこの人生で遺せたことが、わたしにとって至高の喜びになる。
それがなにものにも替えがたい、わたしにとって一番“価値あるもの”になるだろう。
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