かくもだたそれだけのこと。
あるくたび赤血球が壊れていく。
水辺を泳ぐたび血液が流れ落ちてゆく。冬が近い空気にひとつの灯りを求めて夜の僕は主が住む古い洋館の外灯に居るコウモリの目の中に居た。
厳格な主はどこか浮ついたように毎夜森に出かけるのだ。僕はそれが気になってずっとずっと見ている。彼がなにを大切にしているのかそれだけが気になっている。
やがて彼が森に咲く薔薇をただ眺めに行ってるのだと知ったんだけど、どうしてわざわざ森に雨の日も風の日も雪の日も嵐の夜も行くのか理解できなかった。
そうして僕は魚眼レンズのように広がり歪む彼の中にあるのは不治の病に似た幻なのだと結論づけた。
彼は決してその薔薇を剪定する事も持ち帰って部屋に飾ることもしない。薔薇の棘の形を眺め、花弁を眺め、雨水で濡れた姿を眺め、風に揺れてもなお咲き続ける様に心を震わせ、どのようにその棘で誰を傷つけ、自分を傷つけるのかその全てを愛でて溺恋していた。
ただ眺め続けるだけの主は夜の帰路に、世界に幸福を見出している。細かく降り注ぐ光の中に居るような心地だ。
だだそれだけ。
僕は主のそれだけを見て、それから僕の壊れた流れた血液が再生するように脈うつのを感じた。僕もまた主の幻の中の幻影をみていた。ただそれだけ。
薔薇が花弁を落とし、土になるとき主ははじめて自ら薔薇に触れるのだ。薔薇を首から切り落とす。
来年も美しく再生するように。
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