付箋をつけるか、書き込むか
今日は4月1日。
毎年、新年度っていいなと思います。
1月元旦を一年の始まりとしてスタートするのは一般的でしょうが、4月1日も新しい年度がスタートする出発の日です。電車の中で新しいスーツに身を包んだ人を見たり、ニュースを見ていて新しい顔ぶれになっていたりするのを見ると、新しい年がスタートしたんだとフレッシュな気持ちになれます。
新年度が始まって、学生の方は新しい教科書や文献などを読み始めるかもしれません。新しい本を読み始める時は、本当に心が躍るようです。
ところで、最近読んだ大江健三郎さんの『大江健三郎 作家自身を語る』
(聞き手・校正 尾崎真理子 新潮文庫)の中の最後の方に「大江健三郎、106の質問に立ち向かう」という次々短い質問に答えていくコーナーがあります。
その一つに「読書は傍線を引きながらですか。メモを書き込まれますか」という質問がありました。
大江健三郎さんの回答は「傍線を引き、辞書で引いたことを書き込みます。メモのようなものを欄外に書き込みます」というものでした。
大江健三郎さんは書き込み派のようです。
皆さんは本を読む時、付箋を貼る派ですか、書き込む派ですか。
付箋も書き込みも無しで、ただ読むだけの方もいるかもしれません。
私は若い頃は平気で書き込んだり、線を引いたりしていたのですが、ある時期から付箋派になりました。本はできるだけ綺麗にしておきたいと思うようになったからです。
昔、本好きの先輩同士でこのことで議論になったことがありました。
一人の先輩は「本に書き込みをするなんて、本に対する冒涜だ。自分が読んだ本はいつか古本屋で誰かの手に渡るかもしれない。その時できるだけ綺麗にしておくのが本に対する礼だ。本は人間が共有する一つの財産だから」という意見でした。
もう一人の先輩は「自分が買った本を自分がどう読もうがそれは個人の自由だと思う。線を引いたり書き込みをすることで、本の価値は下がるかもしれないが、もしかするとそれが別の読者に何らかのヒントになることもあるかもしれない」という意見です。
どちらの意見もなるほどと考えさせられました。
後者の先輩の意見を考えると、もし大江健三郎さんの蔵書が誰かの手に渡り、そこに線引きや書き込みがあれば、読み手にとってこれほど貴重な財産やヒントは無いようにも思われます。
山本貴光さんの著書に『マルジナリアでつかまえて』(本の雑誌社)というタイトルの一冊があります。
「マルジナリア」とは本の天地左右にある余白(マージン)に書き込まれた内容を指します。山本貴光さんは本書の中で、古今東西の様々な著名人が本の余白をどのように活用してきたのか、そこにどんなものが生まれていたのかを紹介しています。中には本文よりもマルジナリアの方が多くて、本文が読めなくなるほどぎっしり書き込まれているような本もあったりします!
写真を眺めているだけでも、面白く楽しい一冊です。
本を読むスタイルや、蔵書に対する考え方は本当に人それぞれだと思います。
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