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チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』 感想文

 高齢者の運転による交通事故【の報道】が相次いでいる。

 事故のニュースがTLに流れるたびに、待ってましたと言わんばかりに罵倒と免許証返納の言葉が飛び交う。
 一昨年、祖母が更新時期を機に免許証を自主返納した。祖母は自動車免許取得が遅かった。65歳を過ぎてから猛勉強し、何度も乗り越し、試験に失敗しながら期限ギリギリに取得をすることができた。(念のため記すと最後まで無事故無違反の優良運転手)

 目的は夫(亡祖父)の通院などの必要性を感じたためである。バスは数時間に一本、遠い市街地へ行くのみ。息子夫婦は勤めに出ていたし、孫はまだ高校生だった。

 16歳で結婚し、戦争を越えた祖母は苦労の人だった。

 詳しくは記さないが、現代の感覚で言えば婚姻届と離婚届を一緒に出しても不思議ではないような境遇だった。

 それでも福祉サービスが今よりも整備されていなかった90年代に、老いた夫の通院のため、自発的に努力をした。試験に合格した時には誇らしげであった。

 努力の結果が証として目に見える形になる経験は、それまでの人生でそれほど多くはなかったのだろう。生きるためだけの労働をする時代を生きてきたのだ。

 事あるごとに夫に「くたばってしまえ」と毒を吐いていた祖母は、夫が死んだ時に涙をこぼした。
祖母は不幸な女なのだろうか?


【女性が『知らない』ことを男性は知らない/男性が『知らない』ことを女性は知らない】

 本国である韓国で100万部売れ、日本でも10万部を売り上げている話題の本書。フェミニズム小説という触れ込みであり、韓国に生きる女性が受ける性差別はイメージしていたよりもずっと根深く、思いのほかシンプルであるということが読後の印象であった。
 シンプルと書いたのはつまり、社会が疑問視することなく出生前から当たり前のこととして性差別が存在している、という意味だ。
ひとつひとつのエピソードを拾っていき、さらに日本社会の性差別と照らし合わせる作業をすると膨大になるし、感想文の枠を超えてしまうため、印象に残ったひとつのエピソードについて、そして男性として感じたところを記す。

【無自覚の暴力】

『係長は、そこに映っているトイレの構造や女性たちの服装に何となく見覚えがあるような気がしていたが、やがて同僚だと気づいた。ところが彼は警察に通報したり被害者に知らせたりせず、他の男性社員たちと写真をシェアしていたのである』<82年生まれ、キム・ジヨン/チョ・ナムジュ(斎藤真理子 訳)筑摩書房 P147 より引用>

これに対し、警察の取り調べを受けている男性社員たちは、「自分たちがアップロードしたわけでもないのに取り調べを受けるのはおかしい」と抗議をしている。

 このエピソードに関しては、男女間で捉え方が大きく変わってくると思う。想像でしかないけれど、おそらく多くの女性は取り調べを受けるこの同僚に対し、軽蔑し、不快感を覚え、腹を立てるだろう。

 では、第三者としての男性側ではどうだろう?

 腹を立てる女性に対し腹を立てる男はそうそういないだろうが(そう信じたい)、「そもそもアップした奴が悪いのに災難だね」と感じる人は少なくないと思う。これは肌感覚の問題だ。
 100人の男性がいて実際にその動画をシェアされた時、興味関心を持って見てしまう男性はどれくらいいるだろう。想像もつかないが、仮定として10%としよう。つまりまだ倫理観のある男性は90%残っている。

 では、こっそりメモしておいたURLを帰宅後、自室PCのアドレスバーにペーストする男性は、残った90%のうちどれくらいいるだろう。被写体が興味のない同僚ではなく自分の好きなアイドルやタレントであったら、盗撮ではなくプライベートのセックスシーンの流出動画など自分好みのシチュエーションであったらー
 最終的に残るのはおそらく3%だ。そのうち1%は異性に性的興味を持たない同性愛の男性、1%は女性の家族や深い友人(の一部)、最後の1%は正常な倫理観を持った男性である。(現実として夫や恋人であったとしても、自分の妻や恋人が盗撮されている映像に性的興奮を覚える性癖の男性もいるのだ)

 男性である私としては、これに対し非難をする資格は一切ない。自分がそういった腐った鼠を飼っている自覚はあるし、濃度を薄めていけば風俗やポルノを一度でも自発的に利用している(あるいはしていた)男性は1人残らず誰かの娘、誰かの恋人のセックスを性処理の道具に使っているからだ。例えそれが妄想の産物であってもだ。

 問題はこれを「誰かの尊厳を踏みにじった上に成り立っている自己本位な加害行為の一つの形である」ということを、まず男性自身が認められるかどうか、だと思う。
 言うまでもなく自分も含めて(という枕詞付きではあるが)、自分自身こうした意識はまだ自然には根付いていない。一拍おいて、「これは他人のプライバシーを侵害している見てはいけないコンテンツだ」と、感覚よりも考えが頭を巡る。もちろん濃度が薄まれば罪の意識も薄くなり、考えはめぐらず無感覚が倫理のフィルターを通過する。
この感覚はなかなか男性には理解が難しいことと思う。
 というよりも、問題を問題として認識することができていないケースがかなり多いのだと思う。

 盗撮のエピソードに『たとえ話』を用いると男性側にも伝わりやすいのではないだろうか。つまりはこういうことだ。

【会社が雇った外部の警備員が、従業員Aさんの机の引き出しから、出張時に夫へのお土産として買っておいた「東京ばな奈」を盗んだ。警備員は事務所にいる従業員数名に「東京ばな奈」を配った。もちろんAさんの机から盗んだことは警備員本人も認めている。あなたはこの盗品である差し入れを渡された時どう思うだろうか】

 正常な倫理観を備えていれば「それAさんの机からとったものですよね。何やってるんですか?犯罪ですよ」と返すだろう。たとえ自分が空腹で、それが大好物であってもだ。

 しかしこれが「盗撮動画」という性的欲求を刺激するデジタルコンテンツになると意識が変わってくる。
 そこに「不特定多数にシェアされたものだから」「相手が気づいてないならば、傷ついていないはず。だから罪ではない」「男はエロいからしょうがない」という自己正当化が入り込む。
 つまり、東京ばな奈のシチュエーションに置き換えてみると【みんなに配られたものだし/Aさんは盗まれたことに気づいていないし/我々は腹が減っているから、差し出された盗品を食うことは正当な選択である】という事になる。

東京ばな奈は彼女の自尊心だ。
多くの男性はこの矛盾と加害性に気づいていない。

 また、自分自身と相手との距離感によって加害意識の濃度が変化する。これは吉田修一氏の著作『さよなら渓谷』の作中のエピソードにも見られる。(大まかなストーリーは、大学時代に集団レイプの加害者になった主人公が16年後、ある事件に巻き込まれ、警察にマークされる。過去の事件を絡め主人公を追う記者の会話を以下に引用する。)

『「いや、別に大したことじゃないんですけど、もしですよ、もし、その息子さんがレイプ事件なんて起こしたらどうします?」(中略)「じゃあ、真剣に答えるけど、そんなバカなことで、息子の一生がさ、台無しになると思うと、がっかりするよ。親としては」「がっかりですか。…あの、じゃあ、もし娘さんだったら?」「娘?娘が犯されるってこと?」「ええ」「そ、そんなの、相手の男、ぶっ殺すよ」』<さよなら渓谷/吉田修一 新潮文庫P195-196>

 これは「他人事だから」と捉えてしまいそうだが、実際はそういうわけではない。誰かが受けた暴力を、自分の痛みとして捉える想像力を持てるかどうかなのだと思う。

【拡大された世界の見え方】
 とはいえ本書に記されている主人公の訴えは、あくまでも一方向的なものであることも否めない。
 amazon.jpのレビューにおいても、韓国人男性を名乗る投稿者からいくつか、本書に対する批判めいた書き込みが散見された。その人物の書き込みが事実であるかは定かではない。
 ただ、見る角度を変えれば問題の(問題を含む社会の)見え方が変わってくることもまた事実である。

 根拠は明示できないが、女性は一般的に共感の生き物であると言われている。その共感が打ち倒したいものは、本当に自分の心に巣食っている、自尊心を損なう種類のものなのだろうか。差し出された共感に飛び込み、心を委ねてしまうことは果たして女性にとって本当に幸福なのだろうか。

 共感は強くポジティブなエネルギーである。精神障害者や依存症者の当事者グループ(セルフヘルプグループ)は、医療者や福祉支援者の千の言葉よりもずっと心に響き、そのつらさを緩和してくれることが事例としていくつもある。これは体験をしたもの同士が感じられる共感のエネルギーの作用なのだろう。

 しかしこのポジティブなエネルギーがネガティブな方向を向いてしまうと、そのエネルギーが強い分、強烈に作用してしまうことにもなりうる。

『あなたは被害者である。
例えば男性にいやらしい目で胸元を見られた経験はないだろうか?
あなたは抑圧されている。
例えば化粧を強要された経験はないだろうか?
あなたは被差別者である。
例えば女なんだから汚い言葉を使うな、と言われた経験はないだろうか?』

 共感力の強い人がこうしたネガティブな事例のみをくりかえし提示されると、あたかも自分が
【したくないメイクを強要され/言葉の自由を性属性を理由に奪われ/男からのいやらしい目にさらされていることを宿命づけられた存在】であると感じ絶望してしまうだろう。

 性差別も被害も抑圧も多分にあるのは承知するが、同時に女性ゆえに享受しているものもあると思う。
 誤解を招きそうだが、あなたの受けている苦痛はみんな感じてるんだから我慢しなさいとか、優遇されていることを認めてまずそれを手放せ、と言いたいわけではない。
 現状、女性だからこそ受けているプラスの部分を手放さざるを得ない状況にもなるということを併せて伝えないと、発信者として受け手に対してフェアではないし、その先にあるのは、ある種の女性にとっては現状よりも生きづらい状況かもしれない、ということだ。

「私が今、幸福か」を決定するのは自分しかいない。
見方を変えれば、私が理想であると考える環境が、誰かの理想を実現する環境であるとは限らない。キム・ジヨンの理想を実現した世界が、全ての(韓国人)女性にとって理想的な世界であるとは限らないのだ。

この本は告白である。
そこには、痛みが伴っている。

 2008年に日雇い派遣やネットカフェ難民問題に端を発し、再脚光を浴びた『蟹工船』のような一過性のブームに終わってしまっては意味がない。100万人が受け取った声を「今、辛い私」の拠り所のみに終始してしまっては意味がないと思うし、理不尽さや不愉快さが喉元を通り過ぎた後にこそ、共感が意味を持つのだと思う。
 少なくとも女性(チョ・ナムジュさん)は腹を割って発信をしたのだから、男性側も対女性ではなく、一翼を担うものとして「男性が見ている世界の本音」を社会に向けて告白する時なのだと思う。
この本が出版された目的を、少しでも建設的にするために。(おしめ)


(余談)
 免許証返納後、祖母に携帯電話をプレゼントした。

 たびたび、移動手段を失った祖母に買い物の送迎を申し出ているが、実際に車を出したのは一度だけだ。送ると「ガソリン代とっとけや」と千円札と、子供が食べるようなスナック菓子を買って差し出すからだ。「いらないよ(笑)」といっても絶対に引っ込めない。律儀な時代の人なのだ。
 冒頭にこの話を挿したのは何も高齢者の権利を奪うな、と言いたいわけではない。
 自分が安心・安全・便利・快適で理想的な生活を享受したいのならば、その枠の内側から外に出て行った人に何かを差し出さないと社会としてフェアではないということである。
 それは自分の些細な時間かもしれないし、福祉サービスを充実させるための税金かもしれない。あるいは同居や地域の助け合いという選択なのかもしれない。

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