「歴史徴候学」の方法について-高橋訳の誤解と書き換えの問題を吟味する-
高橋訳の『歴史徴候学』は、原文を予め読んでおくと、いちいちどの辺が書き換えられていて違和感があるのかがすぐに分かります。そもそもはじめから、しかもシュタイナーが「歴史徴候学」の名を冠した学問の方法に関する言及が書き換えられており、それが歴史の「徴候学」を称する意味が分からなくなっています。ここではそのことについて触れておきたいと思います。お持ちの方はp.8です。お持ちの方は前後文をご覧ください。
Natürlich ist ein solcher Zeitpunkt approximativ, annähernd; aber was ist denn nicht annähernd im wirklichen Leben? Bei all dem, wo ein Entwickelungsvorgang, der in sich in einer gewissen Weise zusammen- hängend ist, hinüberdringt in eine andere Zeit, da müssen wir immer von «approximativ» sprechen.
当然、そのような時点は近似的ではあります。しかし、いったい現実の生活において近似的でないものとは何でしょうか?ある種の一貫性のある発達プロセスが、別の時代に入っていく場合にはいつでも、私たちは常に「近似的」というのです。(私訳)
もちろん、このような「転換点」という言い方は、概略的でしかありませんが、ひとつのまとまりを持った進化プロセスが別のまとまりに移行する時には、常に「概略」しか語れません。(高橋訳)
まず、ここでapproximativ, annäherndの意味が変えられてしまっています。訳語の選定が問題なのではありません。ここでは文がすっ飛ばされていますが、それは度外視します。その中身について説明していることが全く違っています。高橋訳では「一つのまとまりを持った進化プロセスが別のまとまり(を持った進化プロセス)に移行する」こと、或いは「ある時代から別の時代へと移行する」ことを指して「概略的」ということを説明してしまっています。でも原文はそういうことを言っているのではありません。「ある種の一貫性のある発達プロセスが別の時代に入るとき」のことを言っています。approximativ, annäherndの中身がどういうことなのかは、その続きにある「人間は思春期を迎えるその日を特定できない」という譬え話と、それを挟んだ後に続く次の文章ではっきりします。
Wenn der Mensch geschlechtsreif wird, so kann man auch nicht genau den Tag in seinem Leben bestimmen, sondern es bereitet sich vor und läuft dann ab. Und so ist es natürlich auch mit diesem Zeitpunkt 1413. Die Dinge bereiten sich langsam vor und nicht gleich tritt alles und überall in seiner vollen Stärke auf. Aber man bekommt gar keinen Einblick in die Dinge, wenn man nicht den Zeitpunkt des Umschwunges ganz sachgemäß ins Auge fasst.
人間が思春期を迎えても、その人間の人生のちょうどその日を特定することはできません。それは徴候を示し(sich vorbereiten)、その後も進行していきます。そして、1413年というこの時点に関しても、もちろん、同様です。事象はゆっくりと徴候を示し、そしてすべてが等しく、至る所でその完全な強度で現われ出るわけではないのです。しかし、激変の時点に全く適切に的を絞らなければ、まったく事象への洞察を得ることはできないのです。(私訳)
ある人が思春期を迎えたとしても、その迎えた日を特定することなどできません。それは準備され、そして進行していきます。1413年という年にも、同じことが言えます。事柄はゆっくりと準備されるのです。一年の間に、至る所に変化が生じるのではありません。しかし激変の時点を具体的に提示するのでなければ、事柄を洞察できないのも確かです。(高橋訳)
… - wenn man, zurückschauend hinter die Zeit des 15. Jahrhunderts, nach der wichtigsten Seelenverfassung der Menschheit rückblickend fragt und dann vergleichen will mit dem, was nach dem Beginne des 15. Jahrhunderts immer mehr und mehr in diese Seelenverfassung der Menschheit hineinkam - …
15世紀の時代以前を振り返って、人類の最も重要な魂の在りよう(註:意識魂)を問い、それから15世紀初頭以降ますます人類のこの魂の在りよう(註:意識魂)に入っていくことと比較しようと思うならば、(私訳)
私たちが一五世紀以前の時代の人々の基本的な魂の在り方を一五世紀初頭以降の魂の在り方と比較する時には、(高橋訳)
もうお分かりになると思います。完全に書き換えられています。上の方で誤解したapproximativ, annäherndの意味を、この文では合わないから強引にそれに一貫性を持たせるために書き換えてしまったのです。「15世紀以前を振り返って意識魂の在りようを問う」ということと、「15世紀以降ますます意識魂の在りように入っていく」ということの比較の意味が、激変以前の徴候と激変以後の考察をダブルで言っているのに、これを読めなくしてしまったのです。そんなことをしなくても、方法に一貫性のあることは私訳を見てもお分かりいただけると思います。シュタイナーは確かに「悟性魂の時代」と「意識魂の時代」ということで1413年を区分にしていますが、本来、意識魂を課題とする人々は、この悟性魂の時代にもいたのです。これはそれ以外の時代の区分に関しても同じことが示唆されています。「ある種の一貫性のある発達プロセスが別の時代に入っていく場合には、いつでも、私たちは常に「近似的」という」ということで言われているのは、まさにまず、「事象がゆっくりと徴候を示す」ということを含んだいい方なのです。本書では、テンプル騎士団など、悟性魂の時代にあっても意識魂の在りようをしていた者たちを取り上げています。彼らはまさに1413年に激変を迎えて意識魂の時代に入る前に、その時代が到来する徴候を示していた者たちだったわけです。『歴史徴候学』がまさに徴候学(Symptomatologie)の名を冠する所以です。そういう考察をするのに、その方法からして書き換えられて読者に送り届けられてしまっている事態は、ちょっといただけないと思います。ドイツ語を読まない読者が、本書を読んで歴史徴候学の方法を学ぼうとする場合、初めから『歴史徴候学』とは何かを誤解する羽目になってしまうのです。