シュタイナーがベルクソンについて問題にしたこと——『人間の謎について』より
「ベルクソンはショーペンハウアーの剽窃者だ」とシュタイナーは言っている…、ということをかつてどこかで聞き、『人間の謎について』を当初読んでいた頃も、私自身、長らくこう誤解しておりました。しかし、どうやら違うのではないかと感じ始めました。全集全てを見渡したわけではないので、他を見たらまた違うのかもしれませんが、少なくとも『人間の謎について』でシュタイナーがベルクソンについて問題にした主眼は、単に「ベルクソンがショーペンハウアーの剽窃者だ」というようなことではないのではないかということです。結論から言ってしまうと、上のようにとらえてしまうと、シュタイナーがベルクソンの思想をショーペンハウアーの剽窃者であることを問題にしているかのように捉えられてしまうのですが、むしろ逆にシュタイナーにとっては、ベルクソンの思想が誰かからの剽窃であるとかどこからそういう思想を取ってきたのかということそれ自体は、ほぼどうでもいいと考えていたのではないかということです。
『人間の謎について』では、ベルクソンの批判者として、H. ベンケという人物が取り上げられています。その書のタイトルが『剽窃者ベルクソン、アカデミー会員。ドイツの科学を過小評価した科学アカデミー会長エドモン・ペリエに対する回答について』(シャルロッテンブルク、フート出版社、1915年)というものでした。ベンケがこのような書を書いたのは、ベルクソンの「「独創的な哲学的新創造」が、この運命を担っている時代にドイツ人の精神生活に対して、かくも憎しみに満ち、軽蔑に溢れた言葉を言明する必要があると考えていたから」(シュタイナー『人間の謎について』2章「ドイツ人たちの忘れ去られし思潮」より)です。
ベルクソンのドイツ思想嫌いはよく知られていることだと思います。しかし、シュタイナーは、自分が取り上げている問題が、「国民的(民族的)な好悪とは全く関係がない」とさえ述べています。シュタイナーは、このベンケの書名や、ベンケのことをまとめているヴントの記述を取り上げる前に、ベルクソンの思想を、カール・クリスチャン・プランク及びヴィルヘルム・ハインリヒ・プロイスという人物の思想と比較していました。そこで彼は、これらの人物の思想を紹介しながら、ベルクソンの思想について、「プランクの厳密に組み立てられた広範な理念」(die streng gefügten, weitausgreifenden Ideen Plancks)に比して「軽く織られた、またそれ故に易きに流れる魂にも理解しやすい世界観の思索」(die leichtgewobenen und für anspruchslose Seelen deshalb auch leichter verständlichen Weltanschauungsgedanken)とか、プロイスの「思慮深く、はっきりとした仕方」(gedankenstarker, kraftvoller Art)で表現された記述に比して「はっきりとせず、軽く端折られた理念展開」(schillernder, leichtgeschürzter Ideenentwickelung)と述べるなどしていました。このようなことが手を変え品を変えながら繰り返し述べられています。しかし彼がこのように評したことの主眼は、単にベルクソンの思想の出処を突き止めて、それがプランクやプロイス、そしてショーペンハウアーの剽窃だと暴き立てようとしたのでも、ベルクソンの思想そのものをコケにしようとしたのでもないと思われます。これらは一見ずいぶんな言いようのようにも見えます。しかしよくよく注意深く読んでいくと、自分の議論がベンケのそれと同じようなベルクソンに対する応酬ではないということが読み取れてきます。以下はベルクソンの思想が取り上げられた章「ドイツ人たちの忘れられし思潮」の結論部分です。
「ベンケの叙述からも明らかのように」とは言っているのですが、それはあくまでも、思想内容に限ってのことではないかと思われます。この文章全体を読むと、やはりシュタイナーはそもそも、ベルクソンの思想が誰それの思想の剽窃だとか受け売りだとか、出処を突き止めんがための議論ではないことを重々断っているように思えます。むしろその思想内容が取り上げられたこと自体はあまり問題にしていません。むしろ、後継者が先人から示唆を得ることは、それはそれとして人類の進化プロセスにおいては自然なこととさえ言っています。問題なのは、「ドイツから芽生えた思想の数々の、全世界への発展的普遍化こそがゲルマン文化期の課題だ」と考えていたであろうシュタイナーにとって、元々ははっきりと綿密にあらわれてきていた思想の数々がいまや忘却の彼方にあるか、もはやあまり知られておらず、それらの後継と思しきベルクソンの思想がまるで新しい発想であるかのように評者たちによって捉えられ、実際には元々あった思想であるにもかかわらず、それらに比べるとはっきりとしなくなり、判然としなくなっていったことのほうが重大な問題だったのだと思われます。それがこの章のタイトルの意味ではないでしょうか。ですから、現代の人が見ると、ただのねたみややっかみのように見えたりするかもしれませんが、すくなくとも綿密に読んでいけば、そういった下世話な関心から出てきている言葉ではないことが判明するでしょう。
追伸:ここでとりあげたことは、そもそもプロイスとプランク、そしてベルクソンのどういう記述と比較検討がなされているのかを知らないと意味をなさないかもしれません。もしそれを知りたい方は、『人間の謎について』と『哲学の謎』、そして、当のベルクソンの『創造的進化』の該当箇所を読んでいただく必要があると思われます。シュタイナー自身の評が正しいと思うかどうかは、読者自身の判断にゆだねられていることと思います。ここではひとまず、ひょっとしたら流布しているかもしれないであろう、イメージだけが一人歩きすることがないことを願って取り上げさせていただきました。そして何より、私自身が、シュタイナーが取り上げていたことに対して誤解していたことが、何よりも申し訳ないと思った次第です。