マーティン・スコセッシ監督×遠藤周作『沈黙』-建徳的問題提起①-
カナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言って叫びつづけた。しかし、イエスはひと言もお答えにならなかった。そこで弟子たちが御許にきて願って言った、「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」。するとイエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、遣わされていない」。しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。すると女は言った、「主よ、お言葉通りです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパン屑¹⁾は、いただきます」。そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘は癒された。(『マタイによる福音書』15章22-28節)
そこで、イエスはパンを取り、感謝してから、座っている人々に分け与え、また、肴をも同様にして、彼らの望むだけ分け与えられた。人々が十分に食べたのち、イエスは弟子たちに言われた、「少しでも無駄にならないように、パン屑の余り¹⁾を集めなさい」。そこで彼らが集めると、五つの大麦のパンを食べて残ったパン屑は、十二のかごにいっぱいになった。(『ヨハネによる福音書』6章11-13節)
前置き
本ノートは問題作であるマーティン・スコセッシ監督の映画『沈黙』の描写において克明に描き出されていると思われる問題を建徳的問題提起として取り上げてみようとする試みである。本ノートは或る読者に、つまり著者がいつも喜びと感謝とをもって〈かの好意的な人〉と呼ぶ〈各人=単独者(den Enkelt)〉に差し出されるものではあるけれども、著者は『沈黙』の主題について自分自身が完全に語りうるなどというのは信用のできない技倆であるということ、それについての真実を言いうるということすら大変疑わしいということを忘れてはいない。つまり、ここに記述されることは確定事項ではないし不完全なものである。私は神ではないし、「神の前に立つ〈各人=単独者〉は、神に面と向かっては常に誰も正しくない」²⁾ということを意識している。つまり、人間の判断に対しては、「真理」に関しては単に相対的な区別があるに過ぎない。私の記述もそうである。また、本ノートは「建徳のための」とは言わないで「建徳的」という言葉を用いているが、これは著者が、他人に説教をする権能を持っておらず、牧師でも司祭でもないということを表すものである。聖書に記された事柄を客観的真理とするならば、その記述自体の強調点が置かれているのは「「何」が言われているか」である。だがもし「人間の側」がそれを語るならば、その際に気を付けなければならないのは、言う側が「「如何に」それを言うか」(それを読む・聞く側は「「如何に」それが言われるか」を気にする)のほうに強調点を置かなければならないということである。その上で私が自らに課しているのは次のことである。まず、観察者が現象を把握し確保し、現象を概念にすること。次に、その概念は現象に対して親密なものとして臨むこと。そして、概念は、現象が自らを完全に開示するにいたるように現象を手助けすることにのみ用いるべきであるということ。最後に、観察者が概念を携行するとしても、現象が損なわれないようにすることが必要であるということ。聖書の引用も含めて、以上のことを意識しながら本ノートは書かれている。以上のことが大前提であることをよく踏まえておいていただきたい。本ノートの著者はただ、本ノートを読んでくださる方に、本ノートを読むにあたっては、いわゆる通常の考え方の多くを棄てることを、練習してくれることを願うより他はないと思っている。というのは、もしそうでなければ、ここに提示されている問題は、読み始めても全く役に立たないし、何が問題であるかということにすら全く気付くことができないまま、本ノートが提出しようとすることとは全く逆のこと、つまりキリスト教の一教派の教義の問題で片付けようとするであろうからである。また、詳細は次ノートで開陳するつもりでいるが、これは或る仮想敵を想定しての「批判」の意味も含んでいる。この「批判」はカトリックと遠藤周作の双方を尊重するためのものであり、カトリックの教義自体を否定したり批判したりするものではない。全ては人間の問題として掬いとらなければならない問題である。恐らくこの仮想敵に該当する方には何も届かないであろうし、こちらが多少痛手を蒙るだけになることが予測されよう。たとえそうであろうとも、私が卑しくも願うのは、本ノートをお読みくださる方の思考を白熱せしめることができること、そしてこの記述を読者との対話へと変えてくださることだけである。本ノートは、朽つるもの、卑しきもの、弱きものとして播かれるパン屑の余りのような言葉の種であるが、願わくば読者が朽ちぬもの、榮光あるもの、強きものに甦えらせるという偉大なことを遂行してくださること³⁾をお願いする次第である。
(本ノートをお読みになる際には、『アンチ-クリマクス著/セーレン・キェルケゴール刊 『死に至る病』-キリスト教的な哲学的人間学と人間的可能性の現象学を指標とする論述』を参考にしていただけると幸いです。)
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建徳的問題提起①
■踏絵に際して一カトリック者としてのロドリゴに差し迫る信仰と誠実性、そして状況拘束性からみる〈キリストの声〉の正体について
『沈黙』のなかでも最も重大なシーンであるロドリゴの踏絵。踏絵は特にカトリック者には切実な問題である。ロドリゴが置かれた状況は、何をどうしても罪を犯すことには変わりがないという八方塞がりという拘束された状況にある。つまり以下のようにである。自殺をしても罪、踏絵を踏んでも[=内面的には棄教しないが外形的には棄教行為をする]罪、殉教しようにも統治機関は殺さずに統治のために生かそうとするので殉教不可能、目の前で逆さに吊るされて苦しむ人々、自分が外形的に棄教しないから逆さに吊るされているのだと迫る通辞。その踏み絵を前にしてひどく葛藤する極限状況(当然「罪に対する不安」でいっぱいになるということを見て取らなければならないだろう)、そしてそこで更に〈キリストの声〉が入ることによって踏まなくても罪になる。つまりこのシチュエーションは、カトリック者なら特に理解できるはずだと思うのであるが、何をどうしても罪を犯さないままであるわけにはいかないという八方塞がりが成立している。ロドリゴにはそのような状況拘束性のあるなかで踏絵を「踏むか-踏まないか」の「これか-あれか(Enten-Eller)」の選択・決断・行動が差し迫っているのである。このようなひどい葛藤と不安の生じる極限状況は、ロドリゴないしカトリック者にとってはどう考えても通常の想定を超えた例外的な状況と言わなければならない。ただ踏み絵に際して「踏むか-踏まないか」で踏まないで殉教を選ぶことのできる状況とはわけが違うということを念頭に置かねばならない。さてこの例外的な極限状況を踏まえた上であの大問題となっている〈キリストの声〉の正体は何なのかを検討することにしよう。
「踏め、踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。」(遠藤周作『沈黙』)
映画版ではロドリゴ視点で踏絵に注目するところでこれが入っており、彼があまりにもひどい葛藤を抱えていることがわかる描写となっている。これをまず映画制作の手法として見るならば、ここでまず思い出すべきはホラーティウスが「機械仕掛けの神(deus ex machina)」について述べている記述である。ホラーティウスは『詩論』において「[機械仕掛けの]神は介入してはならない、もし救い手を必要とする葛藤(結び目・行き詰まり)が生じるのでなければ」と語っている。つまり彼は、裏を返せば容易に解決できない葛藤が生じた場合に限り機械仕掛けの神の導入を認めているということである。解決が不可能であるこの行き詰まりの状況拘束性の描写、そこでこの〈キリストの声〉は機械仕掛けの神として介入しているという構図になっているのである。
次に問題になるのは、作品内に介入する形になったこの機械仕掛けの神としての〈キリストの声〉の作品内での正体はなんなのかということである。この〈キリストの声〉の正体については、ロドリゴのただの幻聴にすぎないという説、或いはそうではなくて、作品内で実際にキリストの言葉として語らせているのだとする説がある。私は、映画での描写手法としては言葉で表すことに頼らざるを得ないけれども、実際にはロドリゴにおいて精神が定立した[=聖霊が宿った]「瞬間」(Øieblik)⁴⁾にインスピレーションとして啓示されたものだと解釈する。つまり、ロドリゴ自身の意識においては、その精神が定立した[=聖霊が宿った]時のインスピレーションは、実際の言葉としては沈黙しているけれども、インスピレーションとしてはロドリゴの意識においては沈黙していないのである。上記に見たような極限状況においてひどい葛藤と不安の生じるということ、これこそは人間の本質が永遠なる精神として規定されているということを直接的に表現する描写である。踏み絵のキリスト像が上記の状況拘束性の下でロドリゴの目の前に迫る、凄まじい葛藤と不安でいっぱいになる。その時ロドリゴにおいて精神が定立する[=聖霊が宿る]「瞬間」が生じる。その時に入ったのがインスピレーション=啓示としての〈キリストの声〉なのだ。罪を犯すことしかできない八方塞がりの状況で踏み絵のキリスト像がそのように語っているように見えるのは、ロドリゴに宿る精神=聖霊が自分自身の現実性を投影しているからである。その現実性は可能性の無である。この可能性の無は、救済理念の霊的な絶対存在としての神の様相的な姿である。だがこの可能性の無は、ただ自らを示す限りではそれ以上のことは出来ない。彼の凄まじい葛藤と不安は可能性の前の可能性として精神=聖霊の現実性である。そのようにして精神=聖霊は自由として、可能性の不安において、或いは可能性の無において、或いは不安の無において、自分を自分自身の前に示すのである。この〈キリストの声〉は名実ともに、罪を犯さざるを得ない八方塞がりの状況において以上のように現れたパラクレートスなのである。「もし、罪を犯す者があれば、父の御許には、わたしたちのために助け主(パラクレートス)、即ち、義なるイエス・キリストがおられる。彼は、わたしたちの罪のための、贖いの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである」(『ヨハネ書Ⅰ』2章1-2節)。罪人にこそ聖霊[=真理の御霊]が宿るということである。そしてロドリゴは踏み絵を一瞬踏み、すぐさま足を離して転んだ。それは弱さからの決断であり、裏切りではあろう。しかしだ。原作においてはロドリゴは、「今までとはもっと違った形であの人を愛している。私がその愛を知るためには、今日までの全てが必要だったのだ。私はこの国で今でも最後の切支丹司祭なのだ。そしてあの人は沈黙していたのではなかった。たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた」と言っている。これは先に述べた「瞬間」から精神が定立する[=聖霊が宿る]ことによって、ロドリゴの内面性において、その関係がそれ自身に関係するという動きのある、新たな神-人の関係が始まったということである⁵⁾。ロドリゴは内面的には棄教していない。しかしカトリックにおいては棄教行為は外形的に行うのだとしても罪である。ロドリゴもそのことは重々承知していよう。だがロドリゴの置かれた状況拘束性はその後も常々、刹那刹那、罪を犯さなければならない状態に置かれている。しかし「あなたがたの遭った試煉で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試煉に遭わせることはないばかりか、試煉と同時に、それに耐えられるように、遁るべき道も備えて下さるのである」(『コリント前書』10章13節)とある。つまり、先の〈キリストの声〉は、パラクレートスの宿りとしてその場の状況から「遁るべき道」を与えたのだとしても、それはただ単に踏み絵をしてはならないという訓戒を破ることを一般に許容したり正当化したりしたものではない。だからロドリゴが踏んだのだから安直に他のカトリック者も踏んでいいなどということは少しもならない。これはあのような例外的な極限状況に、つまり何をしても罪を犯さざるを得ない八方塞がりの世の常ならぬ状況においてのみ現れたものだと理解しなければならないだろう。例外があろうとも、このことで踏み絵を一般的に許容したり正当化したりすることは赦されないままであることは変わらないのだ。そして内面的には棄教していないロドリゴにおいては、その後においても死ぬまで、いや死んでも火葬にされるという試煉が続いている。先の『コリント前書』が記しているとおり、忍耐によって自分の魂を保持することは課せられ続けているのだ。先に引用した『ヨハネ書Ⅰ』も、そのあとに続けてこう記している。「もし、わたしたちが彼の戒めを守るならば、それによって彼を知っていることを悟るのである。「彼を知っている」と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない。しかし、彼の御言を守る者があれば、その人のうちに、神の愛が真に全うされるのである。それによって、わたしたちが彼にあることを知るのである。「彼におる」と言う者は、彼が歩かれたように、その人自身も歩むべきである」(『ヨハネ書Ⅰ』2章3-6節)。果たして彼においては踏み絵を踏んだ行為は、またそのような描写を描いた遠藤やスコセッシは、ただ単に踏み絵を踏むという内在的に邪悪な行為を正当化しただけなのであろうか。ロドリゴはその後何も悔改めがないであろうか。ただ何も悔改めないで、ただ単に井上筑後守政重が命令する通りに何度も棄教する・転ぶと書き続けたのだろうか。そうではないであろう。ロドリゴは内面的には棄教していないのだ。これは原作でも映画でも同じだが、そのようにさせられる行為自体が罪であることは彼も重々承知しつつその都度罪を犯し続けなければならない状況拘束性の下にある。彼においてその関係がそれ自身に関係するという動きのある神-人の関係は継続している。その刹那刹那、罪を犯さなければならない状況でそれを彼は自らの信仰を確認する行為と位置付けていた。それはただの自己正当化ではない。彼は沈黙する。彼は〈キリストの声〉を聞いた者だ。恩寵を与えられた者だ。しかし彼は特殊な例外者である。例外者は例外者であるから、完全に一般公共の外に、完全に正常な秩序の外に置かれており、一般公共によって慰められることは一生できない。そして彼は、〈キリストの声〉を従順に聞き、聞き間違えることはなかったかと都度ごとに問い返す恐るべき責任をすら負っていると言わねばならない。そして罪を犯さざるを得ない状況で常々神に赦しを請いながら生きなければならないという忍耐の試煉が続くのだ。例外者となるということは、断じて慰めではありえない。却ってその神-人関係においてのみ同時に浄福となりうるような苦悩と緊張が続くと言わねばならないのではなかろうか。つまり、何ともないように見えて、内面においては常に痛みを、不安を、葛藤を抱え続けていると思われるのである。しかしそれでもそれらに耐えねばならない!それが、精神が定立された[=聖霊が宿った]例外者の神-人の関係において、その関係がそれ自身に関係するという動きに常に要する信仰の努力なのである。常にこの信仰の努力によって、彼は痛みを、不安を、葛藤を耐えなければならない。そしてこのような神-人関係のゆえに、彼は一般公共との関係においては絶えず犠牲となる用意を整えていなければならないだろう。これは日本という状況拘束性を乗り越えて、彼が以前に所属していたカトリック教会においてもである。それゆえ、真の例外者は、悪戯に勝利を求めて騒ぎ立てはしないのであって、むしろ沈黙の内で信仰と謙虚とに沈潜しなければならない。キリストに面して、ロドリゴは沈黙した。彼にはかつては節々に傲慢なところが見受けられた。しかし今や彼は以上のように回心したのではなかろうか。つまり彼なりに死に切る(afdøe)⁶⁾という、「絶対的テロスに対して絶対的に関係すると同時に相対的テロスに対しては相対的に関係する」⁶⁾という実存⁷⁾の改造を成し遂げたのではなかろうか。
では、わたしたちは、なんと言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。断じてそうではない。罪から死んだ(afdøde fra Synden)わたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中から甦らされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様に等しくなるなら、さらに、彼の復活の様にも等しくなるであろう。わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。キリストは死人の中から甦らされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。だから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配に委ねて、その情欲に従わせることをせず、また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。それでは、どうなのか。律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって、わたしたちは罪を犯すべきであろうか。断じてそうではない。あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである。しかし、神は感謝すべきかな。あなたがたは罪の僕であったが、伝えられた教の基準に心から服従して、罪から解放され、義の僕となった。わたしは人間的な言い方をするが、それは、あなたがたの肉の弱さの故である。あなたがたは、かつて自分の肢体を汚れと不法との僕としてささげて不法に陥ったように、今や自分の肢体を義の僕として捧げて、清くならねばならない。あなたがたが罪の僕であった時は、義とは縁のない者であった。その時あなたがたは、どんな実を結んだのか。それは、今では恥とするようなものであった。それらのものの終極は、死である。しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕え、清きに至る実を結んでいる。その終極は永遠のいのちである。罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。(『ロマ書』6章1-23節)
あらゆる悪意、あらゆる偽り、偽善、そねみ、一切の悪口を捨てて、今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである。あなたがたは、主が恵み深い方であることを、既に味わい知ったはずである。主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である。この主の御許にきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊の生贄を、ささげなさい。聖書にこう書いてある、「見よ、わたしはシオンに、選ばれた尊い石、隅の頭石を置く。それにより頼む者は、決して、失望に終ることがない」。この石は、より頼んでいるあなたがたには尊いものであるが、不信仰な人々には「家造りらの捨てた石で、隅の頭石となったもの」、また「躓きの石、妨げの岩」である。しかし、彼らが躓くのは、御言に従わないからであって、彼らは、実は、そうなるように定められていたのである。しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべき御光に招き入れて下さった方の御業を、あなたがたが語り伝えるためである。あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、哀れみを受けた者となっている。愛する者たちよ。あなたがたに勧める。あなたがたは、この世の旅人であり寄留者であるから、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。異邦人の中にあって、立派な行いをしなさい。そうすれば、彼らは、あなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたの立派なわざを見て、かえって、おとずれの日に神を崇めるようになろう。あなたがたは、すべて人の立てた制度に、主のゆえに従いなさい。主権者としての王であろうと、あるいは、悪を行う者を罰し善を行う者を賞するために、王から遣わされた長官であろうと、これに従いなさい。善を行うことによって、愚かな人々の無知な発言を封じるのは、神の御旨なのである。自由人に相応しく行動しなさい。ただし、自由をば悪を行う口実として用いず、神の僕に相応しく行動しなさい。全ての人を敬い、兄弟たちを愛し、神を畏れ、王を尊びなさい。僕たる者よ。心からの畏れをもって、主人に仕えなさい。善良で寛容な主人だけにでなく、気難しい主人にも、そうしなさい。もし誰かが、不当な苦しみを受けても、神を仰いでその苦痛を耐え忍ぶなら、それはよみせられることである。悪いことをして打ち叩かれ、それを忍んだとしても、何の手柄になるのか。しかし善を行って苦しみを受け、しかもそれを耐え忍んでいるとすれば、これこそ神によみせられることである。あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。罵られても、罵り返さず、苦しめられても、脅かすことをせず、正しい裁きをする方に、一切を委ねておられた。更に、わたしたちが罪から死に(afdøde fra Synden)、義に生きるために、十字架にかかって、私たちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、癒されたのである。あなたがたは、羊のようにさ迷っていたが、今は、たましいの牧者であり監督である方のもとに、立ち帰ったのである。(『ペテロ前書』2章1-25節)
もしあなたがたが、頭だけの知恵から[離れて]キリストと共に死んだ(afdøde med Christo fra Verdens Børne-Lærdom)のなら、なぜ、なおこの世に生きているもののように、「さわるな、味わうな、触れるな」などという規定に縛られているのか。これらは皆、使えば尽きてしまうもの、人間の規定や教によっているものである。これらのことは、ひとりよがりの礼拝とわざとらしい謙遜と、からだの苦行とをともなうので、知恵のある仕業らしく見えるが、実は、欲しいままな肉欲を防ぐのに、なんの役にも立つものではない。このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう。(『コロサイ書』2章20-3章4節)
ロドリゴを、神は結局どうしたであろうか。私には確実なことは何もわからない。今ここまで私が素描したことも、人間の分際である私が推測し解釈したことに過ぎない。実際は神のみぞ知ることであろう。だが、一つだけ、キェルケゴールに倣って言っておきたい。神による救済の可能性のみが信じられるのではなかろうか?
註:
1)パン屑:キェルケゴールが仮名著者ヨハネス・クリマクスの名で著した仮名著作『哲学的断屑或いは一断屑の哲学(Philosophiske Smuler eller En Smule Philosophi)』(強調は著者。以下『断屑』と表記)の表題に含まれている語。キェルケゴールはこれを体系的なものではないところの「残屑」の意味を含ませて用いている。大谷長によると、キェルケゴールがこの書の表題にパン屑の語を含ませた意図については、著者が本ノートの冒頭に引用した『マタイによる福音書』15章27節「すると女は言った、『主よ、お言葉通りです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパン屑¹⁾は、いただきます』や、彼がソクラテスと並んで傾倒していたヨハン・ゲオルク・ハマンが、これもまた本ノートの冒頭に著者が引用した『ヨハネによる福音書』6章12節について述べられた1758年の論文“Brocken”(ドイツ語で「パン屑」)になにがしかの影響を受けたか、或いはそれへの暗示を籠めて用いたということが想像されるという。デンマーク語のSmuleは小片、切れ端、パン屑の意で用いられ、かなり強い分割性・砕断性・瑣小性・些末性・無用性・無意義性・残余性の意味が同時に含まれており、切屑・削屑のようなニュアンスで用いられている。キェルケゴールは同書においてキリスト教と哲学との関係(「教義学的-哲学的問題」)を、人間自体の根本問題として提示した。彼は日記において、「パン屑もまたパンなりと貧しき者の言うは人の宜なうところ――されど、こよなく富める者にして貧しき限りなる者のごとくパン屑を集む、こは神々し」と記した。私が『沈黙』の解釈においてこれらを引用した理由は、恐らく本ノートをお読みいただければお気づきになられるだろうと思うが、『沈黙』での遠藤周作もまた、かつての日本の江戸時代初期において弾圧を受けた切支丹や殉教防止の政策のため棄教を余儀なくされた神父たちといった、カトリックの教義体系から取りこぼされた例外者たち、つまり「パン屑」を集めようとした者だと見立てたためである。「切支丹時代にキリシタン時代に自分の関心の足掛かりを向けた私はすぐ、また深い失望を味わわなければならなかった。それは明治以後、出版された汗牛充棟ただならぬキリシタン研究書にはほとんど一つとして、私の視点――つまり強者と弱者の視点からこの時代を分析したものはなかったからである。勿論強かった人、殉教者については数多くの伝記や資料が我々の手に残されている。これらの人々の崇高な行為に対して教会も賛美を惜しまぬからだ。だが弱者――殉教者になれなかった者、己が肉体の弱さから拷問や死の恐怖に屈服して棄教した者についてはこれらキリシタンの文献は殆ど語っていない。勿論無数の無名の転び信徒について語れる筈はないのだが、その代表的な棄教者についてさえ、黙殺的な態度がとられているのである。それには考えられる理由が当然ある。棄教者はキリスト教教会にとっては腐った林檎であり、語りたくない存在だからだ。臭いものには蓋をせねばならぬ。彼らの棄教の動機、その心理、その後の生き方は、こうして教会にとって関心の外になり、それを受けたキリシタン学者たちにとっても研究の対象とはならなくなったのである。一方、迫害者側の文献にも弱者は無視されている。迫害者である日本幕府にとっても己が弱さに脱落した転び者は単に軽蔑の対象に過ぎず、それら無力化した者たちについて態々書き残す必要は全くなかったのである。こうして弱者たちは政治家からも歴史家からも黙殺された。沈黙の灰の中に埋められた。だが弱者たちもまた我々と同じ人間なのだ。彼らがそれまで自分の理想としていたものを、この世で最も善く、美しいと思っていたものを裏切ったとき、泪を流さなかったとどうして言えよう。後悔と恥とで身を震わせなかったとどうして言えよう。その悲しみや苦しみに対して小説家である私は無関心ではいられなかった。彼らが転んだ後も、ひたすら歪んだ指を合わせ、言葉にならぬ祈りを唱えたとすれば、私の頬にも泪が流れるのである。私は彼らを沈黙の灰の底に、永久に消してしまいたくはなかった。彼らを再びその灰の中から生き返らせ、歩かせ、その声を聴くことは――、それは文学者だけができることであり、文学とはまた、そういうものだと言う気がしたのである」(遠藤周作『切支丹の里』)。私はこの文章を素直に受け止めた上で、時代や地域や立場は全く異なれど、それらを越えてキェルケゴールと共鳴し合う建徳的問題提起を試みたいという意味で、上記の引用を用いている。
2)『これか-あれか 第二部「最後通牒の言葉」』「我々は神に面と向かっては常に正しくないという考えに存する建徳的なもの(Det Opbyggelige, der ligger i den Tanke, at mod Gud have vi altid Uret)」というキェルケゴールの記述より。大谷長によれば、「キェルケゴールは『これか-あれか』の立つ内在的な最終の倫理的象面との決別を暗示しつつ、当時の彼自身の情況のもとで、「神に面と向かっては自分は常に正しくない」という根源的自覚によって真理へと建徳されるということを通じて彼の従前の現存在に「最後通常の言葉」を書いた」とされる。そこで命題となっているのがこの「我々は神に面と向かっては常に正しくないという考えに存する建徳的なもの」である。このことは次のノートで展開する問題にも重々関わってくる。詳細はそちらをお待ちいただきたい。
3)『コリント前書』15章42節。「あなたの播くのは、やがて成るべきからだを播くのではない。麦であっても、ほかの種であっても、ただの種粒にすぎない。ところが、神は御心のままに、これにからだを与え、その一つ一つの種にそれぞれのからだをお与えになる。すべての肉が、同じ肉なのではない。人の肉があり、獣の肉があり、鳥の肉があり、魚の肉がある。天に属するからだもあれば、地に属するからだもある。天に属するものの栄光は、地に属するものの栄光と違っている。死人の復活も、また同様である。朽ちるもので播かれ、朽ちないものに甦らせ、卑しいもので播かれ、栄光あるものに甦り、弱いもので播かれ、強いものに甦り、肉のからだで播かれ、霊のからだに甦るのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである」。
4)「瞬間」という語はキェルケゴールの諸著作で用いられる概念からの借用である。これは神と人(これを別の様相で言えば永遠なものと時間的なもの、無限性と有限性、可能性と必然性である)が触れ合い「時の満つる」ということ、その一点においてキリストにおける啓示がなされるということ、神の受肉がなされることを象徴する語である。詳細は「アンチ-クリマクス著/セーレン・キェルケゴール刊 『死に至る病』-キリスト教的な哲学的人間学と人間的可能性の現象学を指標とする論述➃」を参照。
5)「アンチ-クリマクス著/セーレン・キェルケゴール刊 『死に至る病』-キリスト教的な哲学的人間学と人間的可能性の現象学を指標とする論述-まとめノート③」を参照。
6)「死に切る」=「絶対的テロスに対して絶対的に関係すると同時に相対的テロスに対しては相対的に関係する」という実存の改造については「アンチ-クリマクス著/セーレン・キェルケゴール刊 『死に至る病』-キリスト教的な哲学的人間学と人間的可能性の現象学を指標とする論述-まとめノート①」を参照。
7)キェルケゴールの「実存」という用語の基本的な用いられ方は『哲学的断屑への結びの学問外れな後書』の以下の記述を参照。「神は思惟しない、神は創造する。神は実存しない、彼は永遠である。人間は思惟しまた実存する。そして実存は思惟と存在を分離し、両者を継続的に引き離しておく」。「抽象的思惟とは何か?思惟者がその中にいない思惟である。それは思想より以外の全ての者を度外視し、そして思想だけがそれ自身の媒体の内にある。実存は無思想なのではない。しかし実存において思想は異質的な媒体の内にある。抽象的思惟は現実性を度外視するものに外ならないのだから、抽象的な思惟の言葉で実存の意味での現実性を問うというのは、何を意味するのだろうか?――具体的思惟とは何であるか?それは思惟者として思惟される一定のもの(個物の意味での)がその中にある思惟であり、そこにおいては、実存は実存する思惟者に、思想、時間、空間、を与える」。「実存」を意味するデンマーク語Existentsはラテン語のex(s)istereという動詞からきた名詞ex(s)istentiaに由来するのは言うまでもない。動詞existereはラテン語の語源通り「歩み出る」「現れる」「生ずる」「起こる」の意味で使われていたが、この用法は廃れ、基本的には「現に在る」を意味するvære tilと同じ意味で用いられるようになった。そして特に人間について「生きる」「暮らしてゆく」「暮らしを立てる」「生計を営む」という意味に用いられるに至った。名詞Existentsの第一義は「この世に生きていること」であり、これは実はvære tilを名詞化した、デンマーク語で「現存在」を意味するTilværelse(厳密には「(生物特に人間が)現実の世界に生きること」)とほぼ同義である。上記の引用と合わせて、この個々の「現存在≒実存」という用語は、基本的には思惟し行動する時間-空間存在であるという意味で用いられる。
【参考文献】
■遠藤周作
『沈黙』新潮文庫 1966
■セーレン・キェルケゴール
Søren Kierkegaards Skrfter (セーレン・キェルケゴールのデンマーク語原文が読めるサイトです)
・Enten – Eller. Anden del 1843(『これか-あれか 第二部』邦訳:大谷長監修『原典訳記念版 キェルケゴール 著作全集2』創言社 1995 大谷長訳)
・Philosophiske Smuler eller En Smule Philosophi 1843(『哲学的断屑或いは一断屑の哲学』邦訳:大谷長監修『原典訳記念版 キェルケゴール著作全集6』創言社 1989 大谷長訳)
・Begrebet Angest 1843(『不安の概念』邦訳:大谷長監修『原典訳記念版 キェルケゴール著作全集3』創言社 2010 大谷長訳)
・To opbyggelige Taler 1844 (『二つの建徳的談話(1844)』邦訳:飯島宗亨編『キルケゴールの講話・遺稿集2』新地書房 1981 若山玄芳訳)
・Afsluttende uvidenskabelig Efterskrift til de philosophiske Smuler 1845(『哲学的断屑への結びの学問外れな後書』邦訳:大谷長監修『原典訳記念版 キェルケゴール著作全集6・7』創言社 1989 大谷長訳)
・Sygdommen til Døden 1849(『死に至る病』邦訳:大谷長監修『原典訳記念版 キェルケゴール著作全集12』創言社 1990 山下秀智訳/『死にいたる病』ちくま学芸文庫 1996 桝田啓三郎訳)
・拙ブログ『アンチ-クリマクス著/セーレン・キェルケゴール刊 『死に至る病』-キリスト教的な哲学的人間学と人間的可能性の現象学を指標とする論述』
■ホラーティウス
『アリストテレース「詩学」/ホラーティウス「詩論」』岩波文庫 1997 松本仁助・岡道男訳
■聖書
・『口語訳新約聖書』日本聖書協会翻訳 1955年(ウィキソースで全文読めます/若干キェルケゴールが用いていたデンマーク語訳聖書に従って改訳してあります)
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