生まれた日からわたしでいたんだ

生まれた日から わたしでいたんだ
知らなかっただろ

米津玄師『さよーならまたいつか!』


米津玄師、この人が新作を出して、
それに触れるたび"ここまで生きたのね"と
共に確認してくれるような心持ちになる。

最近の彼はどっしりとしながら
どこか軽やかな存在感を放つように
なっている気がする。



このMVで、
彼が映った鏡のヒビが段階を経て減っていき、
店の中の荒れ模様がメンテナンス状態、最後なごやかに人々がただそこにいる様子に変わる。
自己イメージや、世界の見え方が変わっていった表現だとして見ると、彼は自分が見ていた世界が変わっていった(変えていった)ことを忘れなかった人だ。


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今年の5月あたりから、自分の存在の感覚が変わったのを感じる。
自分も、他の人となんら変わらず、ただその姿形でそこにいた。それだけだった。
言葉にすると当たり前すぎるのだけど、それがどうもフラットに見れないというのがあった。
いまは鏡に映る自分、写真に写った自分を、ただそうしてそこにいたんだなと見てる。

逆に、駅構内や人通りのあるところを歩いていて、他の人々をみる感覚も違う。
「全員がひとりひとり、その人だ」という感覚でみている自分に気づく。
誰でもない誰か。いわゆる群衆ではない。
それ以前は、「私だけは"誰でもない誰か"ではないと思いたい」があった。
でも今はそういったこと思う必要がなくなった。
固有な一人ひとりであるこの人たちと自分はなんら変わらずただここにいる。そういう世界に見えるようになったから。

自分をフラットに見れるようになった他にも、
自分の実在を感じるようになった。
これが感動で。毎日「本当に自分も世界も実在しているんだなぁ、あるんだなぁ」ってしみじみ思っている。
字面にすると妙だけど笑

今年の1月頃がかなりしんどい状態で、
目の前にいる人に「ほんとうにそこにいるの?」「そもそも世界は本当にあるの?私は本当にいるの?」と思えてくるようなリアリティの薄さで、
世界そのものから疎外されているような。
どれだけ手を伸ばしても(この世界は)私には手が届かない、というイメージ。
無力。惨め。

グラウンディングを意識したヨガをやったり、
常に既にそこにある身体感覚に意識を向けたりすることでとても感覚が変わった。
実在を感じる。
それには"身体"だったんだ。
それをはじめて意識した。

きっかけはこの動画
https://m.youtube.com/watch?v=pLIzwCXDIHc

「いるのにいないことになってる」
自分が持っているものと、なにか近いものを感じた。
「私がいるのはおかしい」
いつも感じることだった。
私を認識してくれる人がいること自体、奇妙で仕方がないという感覚があった。

思い出した話があった。
私が帝王切開で生まれたことについて、子供の頃に大人たちから聞いた。
へその緒が首に巻き付いていてまったく頭が下りてこないので手術となったそう。
帝王切開の技術がなければ私は生まれることなく死んでいた。
大人たちは「大変だった、でも生まれてこれてよかったね」というトーンだったけど、
私がひとりどこか意味づけていたのは「私は自然状態なら生まれるはずがなかったんだ」「私が生まれてここにいるのは本来ないはずのおかしなことなんだ」というのがあったのだと思う。
そのことを思い出してひとしきり泣いて、残っていた感情を感じれたのはよかったなと思う。

今後どうなるかはわからないけど今のところ、
私がいるのはおかしいという感覚ではなくなった。
おかしいかどうかではなく、ただいるんだなぁとフラットな感じ。

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