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アッシリア vs. バビロニア ~1200年の「空白」~

 古代エジプト史の呪縛からやっと逃れて,自分本来の興味・関心の対象である「アッシリア史」に移れると思った矢先,思わぬ障害が…

 もはや持病になってしまったのか,右腕のしびれが酷くなり,記事を作るのが難しくなってしまいました。

 1年半ほど前,まだ会社員だった頃,コロナ渦の在宅ワークで,Adobe Illustratorによる開発作業にみっちりハマっていたときに発症。
 よくあるマウス症候群かなと思い,しばらく安静を心がけて,1~2か月で回復したのですが… それから1年以上たって,またぞろ再発。。

 キーボードでテキストを打つことは何とかできても,IllustratorやPhotoshopでの画像開発,なかでも力業が必要な地図の製作が特に厳しく,しばし休止状態になっています。

 どうやら胸郭出口症候群とかそっち系のようで,セルフ整体などで症状はやや改善傾向かと。

 まあ焦らず,できることから再開したいと思います。


▼さて本題…

 この間,「アッシリア史」に関する文献の読み込みやメモ作成など,チマチマと作業を続けていました。

 日本では,一般に「アッシリア」については馴染みが薄く,「バビロニア」や「バビロン」の方が,メディア等で目にする機会も多いでしょう。

 旧約聖書に語られる「バベルの塔」やユダヤ教(ひいてはキリスト教)発祥の契機となった「バビロン捕囚」など,物語性が高いことに加え…
 空中庭園の伝承や復元されたイシュタル門などの豪華なイメージも手伝って,「バビロニア」の方が題材やモチーフになりやすいのだと思います。

 しかし,それとは対照的に,楔形文字文書から読み解く西アジア地域の古代史研究は,欧米では「アッシリア学」と総称されます。

 アッシリア学には,もともと,メソポタミアのみならず,シリア,アナトリア,古代ペルシア等の楔形文字による研究まで含まれていました。
 
 それは,学問成立の黎明期に,アッシリアの遺跡から膨大な楔形文字の文書が発見され,それが研究の中心となったことによります。

 分野が細分化した現在でも,アッカド語とその方言のアッシリア語やバビロニア語による古代史研究は「アッシリア学」に括られます。

 このアッシリアとバビロニアの関係史を紐解いてみると…

 バビロン第1王朝が起こった前19世紀頃から,前7世紀末の新アッシリア帝国滅亡まで,実に1200年に渡って,境界を接するこの2国(地域)間では,断続的にせめぎ合いが繰り返されているのです。


 ところが(またこの話題で恐縮ですが)…

 日本の「世界史」教科書では,この2地域の1200年の関係史が完全に「空白」なのです。

 各社の教科書を紐解いてみたところ。。

 まず,アッシリア史については…

 約1400年(前2000年頃〜前612年)の歴史のうち,前9〜8世紀以降の新アッシリア帝国だけクローズアップしていて,その前の1200年ほどは,良くて1~2文の説明,教科書によってはほぼ何も記述無し。

 バビロニア史については…

 前16世紀初めのバビロン第1王朝滅亡後,カッシート人の支配が始まったところでプツリと切れ,そのあと,アッシリア滅亡後の新バビロニア王国がいきなり登場。900年ぐらいは空白です。

 これでは,両地域の関係史について,一言も触れることができなくて当然でしょう。


 私はなにも,古代史をもっと詳細に記述せよ,と言っているわけではありません。

 中途半端に用語(固有名詞)ばかりたくさん出して,物事の関係性を語らず,始まりだけ書いて,その後の経緯や結末を記さず,途中でプツリと切って,何百年も中抜きして,先のページでいきなりつなげる…

 これで読み手に理解せよといっても土台が無理な話で,試験で点を稼ぐには,意味も分からず「暗記」に頼るしかなくなるのが,理の当然でしょう。

 もし,古代史の負担を軽減するなら,後世につながる重要な流れだけに絞って,用語は必要最小限に抑えながら,因果関係と経緯と結末をきっちり語ること。語り始めたことは責任をもって最後まで説明することを徹底してほしいと願います。

 教科書の紙面だけではスペース的に無理ということならば,QRコードでWebに接続して補習…  という方式が,小・中学校の教科書や副教材では今や通常になりましたから,工夫次第でいくらでも対応できると思います。

 実に勝手な事ばかり書きましたが…

 日々「世界史」とその教科書に悩まされて過ごす身の,セルフ「ガス抜き」でありました。

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