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6月23日 沖縄県「慰霊の日」渡邊尚久校長先生の投稿から

6月23日は沖縄県では「慰霊の日」と定められている。
そうだった。。と思っていたところ、
facebookのタイムラインで
千葉県の小学校で校長先生をしていらっしゃる
渡邊尚久先生の投稿が流れてきた。

facebookだと、せっかくの投稿が流れてしまうので、
ぜひたくさんの方に知って欲しいと思ったし、
私もふっと思った時に、facebookで探さずに読めるな、、と思って(笑)、
渡邊先生に承諾を得て、私のブログにコピペをして
載せさせていただきます。

ここから↓

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6月23日は【沖縄慰霊の日】

明日は沖縄慰霊の日。今、社会を教えている6年生にこれくらいは教えたいという内容をまとめました。よかったら参考にしてください。

(ここから)

明日6月23日は何の日ですか。

沖縄県が制定している記念日で「沖縄戦等の戦没者を追悼する日」、一般的には「沖縄慰霊の日」と言われている日です。

現在の上皇陛下が、125代の天皇陛下である1981(昭和56)年8月のお言葉で「日本では、どうしても記憶しなければならないことが4つはあると思います。終戦記念日、広島の原爆の日、長崎の原爆の日、そして、6月23日の沖縄の戦いの終結の日です」と表明され、「忘れてはならない4つの日」として現在の天皇陛下に御代替わり後も、宮内庁Webサイトに掲載されています。(一度、自分で検索してみてね)

この4つの日、いずれも79年前の戦争に関係するものばかりです。

となると、まずは、79年前のアメリカとの戦争までさかのぼらないといけませんが、その前にちょっとだけ横道にそれます。

よく、メディアが「沖縄が国内最後の地上戦」という言われ方をしますが、これは歴史的事実と違っています。

当時の「国内最後の地上戦」は、昭和20年3月26日からの沖縄戦ではなく、同年8月9日から23日までの南樺太での戦いです。1905(明治38)年9月5日にポーツマス条約により、日本に割譲され、1945(昭和20)年9月2日に降伏文書に調印するまでは、正当な日本の領土でした。

昭和20年8月9日にソ連軍が翌年の4月まで有効であった中立条約を一方的に破って南樺太に侵攻した時に、南樺太を守備していた峯木中将の第88師団及び配属部隊は、特に北部の国境では激戦を行い、圧倒的に優勢なソ連軍を食い止めたのです。

ソ連軍は南樺太で予定外の時間を費やさざるを得なくなり、それが大局的には、ソ連軍の北海道への侵攻をできなくさせ終戦となり、北海道分割の悲劇が避けられたのです。

ただ、このことはあまりメディアでは取り上げられません。もし、6月23日に沖縄慰霊の日が取り上げられ、「最後の地上戦」というキーワードが出てきたら、「何、嘘いっとんねん!ちゃんと勉強せ-や!」って突っ込むといいですね(笑)。

では、時を79年前に戻しましょう。

沖縄戦とは何か。

昭和20年3月26日にアメリカ軍が沖縄にある慶良間諸島(けらましょとう)に上陸して始まり、日本軍の司令官が自分で命を絶った6月23日までの戦いのことです。

アメリカ軍は55万人の兵力を沖縄へ投入。日本軍の5倍の兵力です。日本は、民間人を含め、18万8136人の方々が尊い命を国のために捧げられました。その中でも住民は10万人近くともいわれ、慶良間諸島では多くの住民が集団自決を遂げています。集団自決が起きて多くの方がなくなってしまいました。

この集団自決、これまでは、軍が命じたものだと言われてきました。

ところが、これについては後に集団自決を目撃していない2人の伝聞証言からなるものであったこと、それどころか、軍人が住民側の自決申し出を拒否して何とか生き延びるよう説得していたことがわかったのです。

他の島での集団自決もそうです。戦後、生き残った住民が、自決命令がなかったことを家族に告白。集団自決の遺族が援護法に基づく年金を受け取れるように事実と違うことを証言したことなどを打ち明けています。

このような真相が明らかにされているにもかかわらず、これらのことは訂正されることなく、今でも事実として残っていることもあります。

この問題については、現代に置き換えてみると、何が問題だったかがよくわかります。

もし、今、再び、国内が戦場になった時に、私たち国民はどのような心構えでいなければならないのかを考えると、沖縄戦の何がいけなかったのかがわかります。

脅かすわけではありませんが、もし、今、自分たちの住んでいる県が戦場になったらどうしますか。考えたくないですよね。でもね、絶対ってことはありません。皆さんはこう思っていませんか。「他国の軍隊が攻めてきても自衛隊が守ってくれるから大丈夫」って。

自然災害が多い日本では、毎年のように自衛隊に災害派遣命令が出され、多くの国民を救出、支援しています。そのイメージが強く、武力攻撃事態でも、自衛隊が救出や避難誘導、避難所の炊き出し、風呂を沸かしてくれるイメージを持ちがちです。しかし、それは一切誤りです。武力攻撃事態では、自衛隊は敵を排除することを優先するため、住民保護では最初からあてにしてはならないのです。

災害派遣の時と異なり、それらの全てを、自治体の職員の力で行わなければなりません。では、民間人を守る自治体の職員の力とは誰のことを言うのか。

それは、千葉県だと千葉県知事をはじめとする県の職員です。または市町村の役所の職員です。船橋市なら船橋市役所の職員です。

結局、国土が戦争に巻き込まれた場合、住民の命を身近に守るのは、自衛隊ではなく、国民保護の任務を担う公務員であり、それが成功するか失敗するかは平素の訓練にかかっているのです。私たち国民は、そのことをしっかりと理解し、もしもの時に備えなければならないのです。(実際は、ほとんど備えていませんけどね)

また、日本人が一番知らないのは、国内が戦場になったときには、「軍民分離」が基本だということです。自衛隊は敵の標的になるので、民間人が自衛隊を頼ると、自分も標的になってしまいます。

そこから考えると、沖縄戦で多くの民間人が亡くなったのは、国民保護の失敗であり、その責任は市町村長や県知事にあるということがわかります。つまり、「日本軍は県民を守らなかった」と言う報道や言論は誤りであり、「沖縄戦は国民保護の失敗により多くの民間人が亡くなった。」ということです。

ですから、沖縄の集団自決から私たちが反省しなければならないのは、日本軍に責任を押し付けるのではなく、「当時の県や島の自治体は、なぜ、もっと早く島民を批判させることができなかったのか」となるべきです。

この視点については、実はほとんど、いや、全くと言っていいほど言われてきていませんが、5月に紹介した仲村俊子さんの息子さんである仲村覚さんは、以前から主張し、日本のために行動してくださっています。

さて、この沖縄戦を今度はアメリカ側から見てみたいと思います。

ある方が、沖縄戦を戦ったアメリカ人の証言を集めた本を読んで驚いたそうです。それは、その本に次のような証言があったからです。

「精神の緊張状態は多くの兵士にとって耐えられないものだった」

「頑強で、逞しい大男が、いざ最前線に行くと、泣き叫びながら戻ってくる」

「あらゆる部隊が戦闘疲労症の渦に飲み込まれており、精神科医が対処したが、再び、戦闘に戻った相当数の兵士が二度と戦うことができなかった」

なんと、2万6千人のアメリカ軍兵士が沖縄の戦いにおいて、精神病に罹って戦闘能力を失っています。

実は、当初、アメリカは1か月で沖縄戦を終了する予定で作戦を立てていたそうです。ところが、勇敢に、しかも、あらゆる困難に耐え、全力で向かってくる日本軍に対して恐れていたというのです。

防衛大学の学校長が「日米戦闘と戦後日本」で次のように述べています。

「アメリカの第二次世界大戦中の文書をワシントンの国立公文書館で見て、私はびっくりした。沖縄戦に対しては、アメリカ側が敗者意識を持っているのである。実質的には敗戦である、というのがワシントンの受け止め方であった。つまり、4月中に作戦完了予定の沖縄戦が、5月に入り、5月中には片付かず6月にずれこむ。そして、6月も下旬の23日になって、ようやく片付いた。3倍の期間をかけたこの戦いは実質的には敗北である、というのがアメリカ側の受け止め方である」と。

勝者であるアメリカ側が、心理的には敗者であったと。

沖縄の戦いが続けられている中、アメリカが方針を転換していきます。

沖縄の戦いが終わる直前の6月18日、重要な会議が開かれます。

トールマン大統領への方針転換の要請が、アメリカ陸軍から提出されます。どのような要請だったのか。

「この戦争を早期におわらせるために、他の手段を検討すべきです。今こそ、日本を降伏させるために、天皇の存続を認めることを表明すべきだと考えます」と。

アメリカは、わかっていたのです。日本人にとって天皇とは民族の誇りと独自性にかかわる問題なんだと。このまま、続けていれば、さらにアメリカの被害は大きなものになってしまう。だったら、天皇の存続に対してアメリカが理解を示せば、日本人は武器を置くだろうと、アメリカは考えたのです。

その結果、日本は8月14日、ポツダム宣言を受諾します。沖縄の戦いは、日本の天皇という存在を守ったのです。いや、守られたのは天皇だけではありません。

「沖縄の戦い」が3か月も続かず予定通りに終了していたら、どうなっていたか、ご存じでしたか。

アメリカ軍は南九州上陸のオリンピック作戦、関東平野侵攻のコロネット作戦を実行することを考えていました。そして、ドイツ同様に日本を壊滅させ、無条件降伏させる計画でした。その場合は、ソ連のスターリンは北海道・東北地方に侵攻することを決定事項としていました。その結果、日本の領土は東西に分断支配されていたでしょう。このアメリカとソ連の作戦遂行を断念させたのはまさに、「沖縄の戦い」なのです。

想像してみてください。

歴史に「もし、あの時…」はありませんが、仮にもし、沖縄が1か月で占領されていたら、今の日本はないでしょう。いや、日本そのものがなかったでしょう。

よく、「沖縄県民は捨て石になった」などと言われることがあります。果たしてそうでしょうか。

沖縄戦で戦死したのは沖縄県民だけではありません。沖縄県以外の46都道府県出身の軍人の戦死者も6万6千人以上にのぼります。その中でも戦死者が多い都道府県は、もっとも沖縄から離れている北海道です。

では、我が千葉県はどうだったのか。

千葉県民もなんと1622人が沖縄の戦いに命を捧げました。中でももっとも有名な方に太田実中将がいます。沖縄県民では知らない人はいないくらい尊敬されているんです。千葉県民として嬉しくないですか。これでも「沖縄県民だけが捨て石になった」と言えるでしょうか。

実は、アメリカの沖縄地上戦は、武器だけの戦いでなく、心理戦も含んでいました。アメリカは日本人のことをよく研究しており、どうやったら日本人が分断できるかを研究しつくしていました。それは、すでに戦争が終わる前から準備が始まっていたそうです。

本来、敵はアメリカです。アメリカは日本との戦争で、やってはいけない民間人を殺すという、原爆も含めると相当な数の日本人を虐殺したのです。本来、憎むべき相手はアメリカです。

ところが、心理戦に見事にかかった日本人の一部の人たちは日本軍を敵とみなし、戦後はメディアも一緒になって、報道であることないことを流し続けました。これで日本がまとまるはずがありません。

はっきり言いますが、現在も日本は他国から狙われています。にもかかわらず、国内で対立があっていいのでしょうか。事実でないことを事実として日本人が信じたままでいいのでしょうか。一人ひとりが、メディアをうのみにせず、何があったのかを学び、賢くなる。それは、日本が日本であり続けるためです。

多くの方が沖縄戦で亡くなられたのです。戦後、79年過ぎてもアメリカが仕組んだ心理戦にかかったままで、日本国内で対立をした先に日本が残せなかったとしたら、どうやって亡くなられた方たちに顔向けができるでしょうか。できるはずもありません。

沖縄が祖国日本に復帰した歴史、そして、アメリカとの戦争とで人類史上最大とも言える激戦となった沖縄戦をしっかりと振り返ることで、これからの日本はどうあるべきかを考えなければ、再び、79年前と同じ悲劇を繰り返すことになるでしょう。

みなさん、賢くなりましょう。そして、明日は、「日本民族が存在しているのは皆様が命を捧げてくださったお陰です、皆様の死を決して無駄にしないように生き残った私たちが力を合わせて日本がこれからも繁栄していくように頑張っていきます、ということをあの戦争で亡くなられた方に誓いたいと思います。


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渡邊先生の文章コピペはここまでです。

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たくさんの方に知って欲しいなとおもいます。

渡邊先生、コピペさせていただき、どうもありがとうございました。

PS.文章の中で、千葉県のことが出てくるのは、渡邊先生が千葉県の小学校の校長先生だからです。学校でこのようなことを教える時に、地元でどのくらいの方が沖縄戦、もしくは各戦場で戦ったのかを知るってことは子供達にとっても自分ごとになって考えるいい機会だと思います。

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