【3/5】「小医は病を治し、中医は人を治し、大医は国を治す。」 in 西洋医学
前回は、「小医は病を治し、中医は人を治し、大医は国を治す。」という言葉の由来について、皆さんと一緒に紐解いてみました。
さて、今回は、東洋医学を中心に発展したこの「小医は病を治し、中医は人を治し、大医は国を治す。」という考え方が、西洋医学においてはどのように発展してきたのかについて、見て行きたいと思います。
西洋医学における「大医は国を治す」的発想の起こりと発展
古代ギリシャ~中世(紀元前5世紀~14世紀)
ヒポクラテス(紀元前460~377年頃)やガレノス(129~216年)の時代から、個別の患者の病気や症状に対処することが西洋医学の基本とされてきました。
特にヒポクラテスは「ヒポクラテスの誓い」によって医療倫理を示しましたが、その中においても個々の患者への治療に重点が置かれました。
ちなみに、西洋医学における「医聖」の一人、ヒポクラテスと、前回ご紹介した東洋医学における「医聖」の一人、扁鵲(へんじゃく)とは、いずれも紀元前5世紀頃と、ほぼ同時代に活躍していたのが面白いですね。
その後、中世には主に症状に対する対症療法が行われ、原因の解明よりも宗教的な治療法が中心でした。
ルネサンス~17世紀
ルネサンス期には人体解剖が進み、ヴェサリウス(1514~1564)やハーヴェイ(1578~1657)などが解剖学や生理学を発展させ、病気の原因への理解が深まりました。
ハーヴェイの血液循環の発見や、パラケルススによる「化学的な治療」への試みなどが、疾病の原因解明や病理学的なアプローチの土台となりました。
しかし、この段階においても、西洋医学はまだ個人の体内での生理的メカニズムや疾患の原因に介入するアプローチの強化が主だったのです。
18世紀~19世紀(1700年代後半~1800年代)
この時期から西洋医学においても徐々に予防医療の概念が強まり、特にワクチン接種の普及が進みました。
エドワード・ジェンナー(1749~1823)は天然痘のワクチン接種法を開発し、感染症予防の可能性を示しました。
但し、予防接種や消毒法が導入されたとは言え、この段階においてもまだ、あくまで個人レベルでの疾病予防が主な目的だったのです。
19世紀(1800年代後半)
ジョン・スノウによるコレラの研究(1854年)やフローレンス・ナイチンゲールの衛生改善活動が示すように、医師が患者の治療だけでなく、地域の環境衛生に関与するようになりました。
ナイチンゲールは病院の衛生環境を重視し、感染症を防ぐために清潔な環境の重要性を説きました。
また、細菌学が発展し、ルイ・パスツールやロベルト・コッホらが細菌が病気の原因となることを発見しました。
これにより、それまであくまで個人レベルでの予防が主であった予防医学が個人の周囲の環境や社会をも対象とするよう拡張され、環境改善が公衆衛生の一環として行われるようになって行ったのです。
19世紀後半~20世紀(1800年代後半~1900年代)
エドウィン・チャドウィックやルドルフ・ウィルヒョウの活動によって、公衆衛生の考え方が拡大しました。
チャドウィックはイギリスにおける労働者階級の衛生状態の改善を提唱し、公衆衛生法が制定されました。
ウィルヒョウは、
という言葉を残し、健康と社会の改善を一体と考える視点を示しました。
20世紀(1948年)には WHO(世界保健機関 World Health Organization)が設立され、国際的な公衆衛生政策が推進され、医療が個人の治療を超えて国や社会全体の健康に貢献するべきだという考え方が強化され、現代に至ります。
まとめ
さて、ここまで、前回は東洋医学、今回は西洋医学において、「大医」的な概念がどのように発展してきたかを振り返ってきました。
ここで、それぞれの医学が「小医」→「中医」→「大医」の各段階に発展した時期を改めて図にして比較してみましょう。
こうして並べて比較してみると、事後対応・対症療法的医療から病気の原因への介入の段階に進んだタイミングは1500~1800年程度、そして真の「大医」的発想の段階に進んだタイミングも1000年弱、西洋医学は東洋医学に後れを取っていた、という解釈も可能です。
洋の東西において、ここまで医学の発展の仕方にタイミングの差が生まれた理由としては、そもそもの東洋医学と西洋医学とのアプローチの仕方が大きく異なること等も関係していると考えられますが、続きはまた次回と致しましょう。
今回の内容に関しても、お気軽にご感想・ご意見・ご質問等コメント欄にお寄せ下さいね!