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【短編】目印

その港町を訪れたのは、俺がまだ君と出会う前だった。
小さな音楽イベントに招待されたんだ。俺は、今はもう手放してしまったベースと、文庫本、少しの酒を積んで車を走らせた。
ここからだと二時間くらいかかる。そこまで急ぐような日程でもなかったから、道中の色んなところを見て回りながら、ゆっくりその町を目指した。

途中、奇妙なことがあった。
誰もいない場所に向かって、老婆が頭を下げていたんだ。
神社の礼拝作法っていうのか?ああいう感じだよ。
二回頭を下げて、二回手を叩く。何かを唱えて、もう一度頭を下げる。
俺はてっきり、道祖神どうそじんとか、地蔵があってそうしているのかと思ったんだ。
道祖神を知らない?道に置かれた神様で、疫病の侵入を防いだりするとされる民間信仰の…。いや、それは今はいい。とにかく、お地蔵さんみたいなものがあると思ったんだ。でも、なかった。
ゆっくり車を走らせたから、確かなんだ。そこには、何もなかった。
ただ、遠くのほうに山が見えていたから、山を拝んでいるのかもしれない。山岳信仰ってのもあるしな。そう思って、通り過ぎた。なぜだかその老婆は、俺を見て悲しそうな顔をした。
今思えば、あそこで引き返せばよかった。


町に着くと、なぜだか熱烈な歓迎を受けたんだ。
俺を招待してくれた男が、涙を流して喜んでくれた。
当時、俺はそこまで有名なミュージシャンではなかったし、ゆかりのある場所でもなかった。不思議だな、とは思ったんだ。
もしかして隠れファンが多いのか。そう思ってひどく喜んだりもした。俺は本当にどうしようもない奴だった。あいつらは、誰でも良かったのにな。

イベントは、今までにないくらいに大盛況だった。大して売れてもいない俺の曲を、みんなが歌ってくれたりしてな。楽しかったなあ…。

その日の晩だった。
地酒を飲みすぎた俺は、夜中にトイレに起きた。古い旅館で、トイレが共同だったんだ。旅館の部屋を出ると、魚が一匹廊下に落ちていたんだ。イワシか何かだったかな。
何でこんなところに落ちているんだろう。そう思いながら歩いていくと、途中にまた一匹、魚が落ちていた。間隔を空けて、さらに一匹。
さすがに気味が悪くなってきた。早くトイレを済ませて、引き返そうと思ったよ。
トイレから出ると、それまで明るかった廊下の灯りが消えていたんだ。

旅館の人が消してしまったのかな。そう思いながら電灯のスイッチを探した。その時になって、俺はようやく気付いたんだ。
何かが、足を引き摺って歩くような音。
水が、ぴちゃぴちゃと地面に落ちる音。

やばいな、とは思った。幽霊とか、そういうものを信じていなくても、人間ではないのはわかった。トイレの中に戻ってやり過ごそう。そう思ったときに、何かが俺の足を掴んだんだ。
冷たくて、ぬめっとしていた。両生類とか、魚類に掴まれたみたいだった。今でも思い出すよ。
それが息をするたび、生臭さが広がった。はあ、はあと荒い呼吸が聞こえる。駄目だと思ったよ。それは、一言こう言った。
「ちがう」
と。俺はそれを蹴り飛ばして、一目散に走って車に逃げ込んだ。そのまま、その町から逃げた。

途中、あの老婆がいたんだ。夜中なのに、ひとりで、同じ場所に。
気が動転していたのかな。俺は、その老婆に話してしまいたくなった。
車を停め、近づいた。老婆は俺を見るなり、血相を変えて叫んだんだ。
にえを探せ!代わりを見つけよ!『あれ』がお前を見つける前に!」
そう言って、老婆は茂みの奥に消えた。追いかけると、白い狐が走っていくのが見えた。


さっきから、青い顔してるけど、大丈夫か?
たしかに怖い話だけど、作り話だから安心しろよ。
…え?
どこを目指して走っているのかって?
美味い魚を食べさせたくてな。俺は用事があるから帰るけど、君は泊まっていくといい。宿も手配しているから。
そうそう、その旅館、最近になって新しくなってな。トイレも風呂も、部屋に備え付けてある。酒も、たくさん持ってきてくれる。
宿泊費は俺が出すから、部屋でゆっくりするといい。
ほら、着いたよ。降りて。…大丈夫だから。


ああ、そうだ。
もし部屋から出て部屋の前に魚があっても、触ったり、動かしたりしたらだめだよ。
それさ、目印だから。

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ナル
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