「人生のB面」で人の役に立つということ
A面とB面。
学生時代はCDやMDが全盛だったわたしにとって、物理的に表裏のあるレコードやカセットテープにはなじみがない。
それでも、「王道・一般受け・キャッチーな」A面に対して、「知る人ぞ知る・マニアック・味のある」B面という喩えはピンとくる。
どうやらそう考える人は多いらしく、ふと思いついた「人生のB面」というキーワードを検索したら、複数のwebサイトや記事がヒットした。
ここでは、わたしなりのA面とB面を定義して、話を進めたい。
人生のA面とは
社会人として働くわたしたちは、何らかの役に立つスキルを身に着ける。学校や職場あるいは家庭生活で身に着けたそれらは、A面の自分だ。
A面のおかげで、わたしたちは社会の中でさまざまなつながりを持つことができる。
たとえば、プロの料理人は食事をふるまうことでお客様とつながる。
組織の一員として事務作業を行う会社員は、同僚や他部署の人とつながり、社外へつながりの連鎖を生む。
小さな子どもをケアする親は、子どもとのつながりだけでなく、保育園や学校の先生、地域の人々とのつながりも持つことがある。
A面の自分とは、他者に対して何を提供できるのか、どう役に立てるのか、説明するためのもの。社会の一員として生きていくためのもの、と言える。
人生のB面とは
それに対してB面は、あくまで内的なものだ。わたしたちが自分を自分だと思えるための、感覚的な部分。物事の解釈や、ひとつひとつの好き嫌いにじんわりとにじみ出るもの。もちろん見ないふりをして生きていくこともできる。だけど、その時間は味気なくて、息苦しい。
A面とは真逆で、他者は関係なく、ただ自分の人生に根差す大切なもの、と言えるだろう。
社会人3年目の悩み…自分らしく仕事をしたい
就職して3年が経つ頃から、どんな仕事をしたいのかわからないことが悩みの種になった。
A面のわたしが、誰かの役に立てることは知っている。誰かとつながれることはもう、経験している。
でも、そうでないわたし、B面のわたしで誰かの役に立ちたい。誰かとつながりたい。その思いは年々つよくなったが、それを叶える方法はまったく見つからなかった。
わたしのB面
B面の自分で人の役に立つためのカギを見つけたのは、それを志して6年ほど経ったころ。内面の大きなブレークスルーを経てからだった。
わたしは人と関わる場面を怖いと感じることが多い。そのため、やりたい仕事について具体的に考えることがとても難しかった。
仕事の中で楽しさや、やりがいを感じる場面はある。だけど、次の瞬間には不安と恐怖が心の前面を覆いつくし、逃げることばかりを考えてしまう。
それは苦しいけれど、強烈な「わたしらしさ」と言える部分。人生のB面の大きなパーツだ。
何年もの試行錯誤を経て、今のわたしはB面の自分を大分理解している。それに伴って、ささいなキッカケで人を怖いと思うことが減り、少しずつ「何がしたいか」を考えることができるようになった。これは、わたしの大きなブレークスルーだ。
「苦しみを乗り越えた経験」の価値
今のわたしは、ここに至るまでの「苦しみを乗り越えた経験」を共有することができる。どんな言葉で、どんなふうに届けられるだろうかーーそういうことを考えるようになったとき、これこそがかつて切望していた「B面の自分で役に立つこと」なのだと知った。
そういえば、大変な経験を乗り越えた人が、同じ苦しみを持つ人たちをサポートしたり、経験談を語ったりする活動に生涯をかける話はよく聞く。
それは「悩みぬいた苦しみ」という自分の人生に深く根差すB面で、人とつながることができるからなのかもしれない。
最初から誰かの役に立つことを前提として身に着けたA面の自分ではなく、これまでの人生で積み上げたB面の自分で誰かの役に立ち、他者とつながることができたなら、自分をもっと好きになれるのかもしれない。このために産まれてきたとさえ、思えるのかもしれない。わたしはこれから、それを確かめてみる。
人生のB面でつながりを持てたとき、わたしたちの人生は両A面になるのだろう。あるいは、サブスクで好きな曲を聞き放題な現代を反映して、A面・B面なんて関係なく、スポットライトの当たる要素が増えるだけなのかもしれない。
なんにせよ、自分らしく人とつながることのできている感覚が、心をぐっとゆたかにするはずだ。