読書感想文
夏休みの読書感想文の宿題が大嫌いだった。
読んだ感想?
「ストーリーが面白かった」
「あまり面白いと思わず、読みにくかった」
だけでは何故いけない?
もちろん、そこを深掘りすれば、いろんな理由があるから面白く、読みにくいのであるが、そんなことは考えたきゃ考えれば良い。なのに、国語の授業のように「作者の意図することを読み解く」を求められ、どうしてそれを、そして自分なりの解釈を文章にしなくてはいけないのか、人様に提出しなきゃいけないのかわからなかった。苦痛でしかなかったのだ。
大人になり、いろいろと事情が変わる。
デートで映画に行く。友達と展覧会へ行く。そんなシーンがあるごとに、自分の嫌いな「感想文」を提出する必要に迫られるのだ。
子供の頃にはなかった「かっこつけ」や「見栄」精神のフィルターを付けた目(レンズ)を通してるので、余計に厄介。人からよく見られたい自分丸出しになるのだ。フィルター外して、自分の言葉で伝えれば「好き」「嫌い」「わからなかった」「面白かった」と単純な言葉から始められる感想も、「あのシーンの主人公は…」とか「色使いが」など余計な言葉も発しなくてはいけなくなる。それが、厄介。観る前から、行く前から携帯でレビューを読んで使えそうな単語を頭にインプット。カッコつけたい相手の前で、自分のことのようにアウトプット。それが、悪いことでもなく、ごく自然と普通になっていた。
うちの夫は全て見ていた。
「なんでそんなにカッコつけるの?」「自分の意見、感想ないの?」
最初はカチンときた。が、淡々と私が今まで彼に提出してきた読書感想文の面白くない沙汰を述べられると、ごもっともでグゥの根も出ない。仕事では多少必要かもしれないよ?と思いやりを付け加えてくれた上で、家族である自分の前ではやめてくれ。と。
フィルター付いたメガネをかけ、カンニングまでする妻の姿は醜い。
悔しいけど、私をよく見ていらっしゃる。なんて素晴らしい夫なのかと少し思う。カチンと来てるから、不貞腐れた更に醜い妻になりながらも少し思う。見抜かれた…ダサいオバサン。
見抜かれるまで気が付かない、ひどいオバサン。
夫曰く「カチン」とくるのは、図星で言われたくないからだと。つまり、知らないふり、気が付かないふりしたオバサンなのだ。
40過ぎのオバサンは、トレーニングをする必要が出てきた。自分が感じたものを発するという、とてもシンプルな基礎練から。
口に出す練習は、できた夫相手にさせてもらうことにする。が、今まで散々カッコつけ、分かった雰囲気醸し出しまくりのオバサンが、そんなことできるのか。夫をガッカリさせないか…。
だから、ここnoteでも書き出す練習することにしようと思う。自主練だ。
日々の出来事への感想文。読んだ本の感想文などなど。
続くかは知らない。なにせ飽きっぽいから。
夏休みの読書感想文がその本のあらすじになりがちだったのだから、トレーニングはすぐには終わりそうにないのは確かだ。
年始(2021)に書き留めたメモを見ると、どうやら自分も変えたいらしい。(年始のメモでも、この文章とほぼほぼ同じことを書き留めているのには、自分でも呆れとちょっとかわいいな自分と慰めたくなる気持ちになる。)
重い腰をもう一度あげてみることから始めてみるが、誰かが40過ぎのオバサンの基礎練、トレーニングを見守ってくれたらきっと励みになると思う。
おんぶに抱っこで自分が変えられるのか…。
まぁ、それも私だから仕方がない。
今日はここまで。
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