【ビデオ・アートの創始者】ナム・ジュン・パイクを解説(メディア芸術、フルクサス)
チカチカと光るモニターとネオンサイン。
よく見ると、アメリカ大陸の形をしています。
この作品の作者は、ナム・ジュン・パイク(Nam June Paik)。テレビやビデオなどを用いた芸術作品を世界で初めて発表した“ビデオ・アートの父”として知られる、韓国系アメリカ人です。
彼はアメリカや韓国のみならず、日本やドイツなど世界を舞台に活躍したアーティストで、オノ・ヨーコや坂本龍一といった国際的に有名な日本人アーティストとの共同作品も数多く残しています。
この記事では、ナム・ジュン・パイクの生い立ちや作品、日本との関係などを解説します。
なかなか理解しにくい分野かと思いますが、楽しんでご覧ください!
1. ビデオ・アートの萌芽
ナム・ジュン・パイク(1932−2006, 以下、パイク)は、韓国の京城(現在のソウル)生まれの現代アーティスト。富裕層の家庭に生まれたパイクは、1950年に勃発した朝鮮戦争をきっかけに家族と香港、そして日本へと逃げ渡ります。
1956年、東京大学文学部、美学・美術史学科を卒業。その後、当時の西ドイツにあるミュンヘン大学とフライブルグ大学で音楽史を専攻したパイクは、前衛的な音楽に強い関心を持っていました。
その頃から音楽家を志しますが、当時知り合ったジョン・ケージらの影響を受け、1961年頃から彼らとともにネオ・ダダや、フルクサスの活動に参画します。1963年には、西ドイツ・ヴッパタールのパルナス画廊で、テレビ受像機を使用した世界初の作品を発表。これが、テレビの概念を根本的に覆した、伝説的な個展となります。
メディア・アートの基礎を確立
1964年に渡米した後も、「NJパイク-エレクトロニック展」などの個展で作品を、毎年継続して発表。またこの年に、シャーロット・モーマン(女性チェリスト)とのパフォーマンス“ロボット・オペラ”を行なっています。1965年には、ポータブル・ビデオ・レコーダーを使用した作品を初めて展開、ビデオ・アートの先駆者となります。
1969年、日本人エンジニアの阿部修也と共同で、異なる映像源の画像を組み合わせて操作できる、初期の「ビデオ・シンセサイザー」を製作。これまでの電子的な動画制作を、一変させました。パイクは、こうした精力的な活動を通して、今では当たり前になったテレビやビデオを用いた、新しいメディア・アートの基礎を確立し、新境地を開いたのでした。
2. フルクサスとヨーゼフ・ボイス
パイクが参加していた「フルクサス」とは、1950年代後半、当時のアート業界のエリート主義的な潮流に幻滅した多国籍アーティストたちが集結し生まれた、前衛芸術運動の集団です。
フルクサスは、ラテン語で“流れる”“変化する”といった意味で、フューチャリストやダダイストからの影響があると指摘されており、パフォーマンス的な要素が特徴的です。また、明確な主義や主張を定義することなく、様々な解釈ができる表現、ユーモアのある表現を展開。
主なメンバーとしては、ナム・ジュン・パイクのほかに、ヨーゼフ・ボイス、ヴォルフ・フォステル、ジョージ・ブレクト、オノ・ヨーコなどが有名です。パイクは、ヨーゼフ・ボイスと、1978年にパフォーマンス「ジョージ・マチューナス追悼・ピアノ・デュエット - ボイスとパイク」を演じています。
国際的な活躍
当時の作品としては、《Global Groove (1973)》、《TV Buddha (1974)》、《TV Garden(1974)》など、バラエティに富んだユーモラスな作品が数多くあります。1977年には、同じくビデオ・アーティストの久保田成子と結婚。同時期から、ドイツのハンブルク美術大学やデュッセルドルフ州立美術アカデミーで教鞭をとります。
映像を中心とした彼の作品は、ジャンルやメディアを拡張し続け、1984年には衛星中継による番組《グッドモーニング・ミスター・オーウェル》を発表。映像によるグローバルなネットワークのあり様を明確に表現しました。
その後も、2つの大規模な回顧展を含む数多くの展覧会を開催し、ドクメンタ、ヴェネツィア・ビエンナーレ、ホイットニー・ビエンナーレなどの国際美術展にも出展する、国際的な現代アーティストとして活躍を続けます。
パイクは、2006年、アメリカ・フロリダ州マイアミの別荘でこの世を去りますが、2008年には、白南準美術館(ナム・ジュン・パイク・アートセンター)が、韓国・ソウルの郊外、龍仁市に開館しています。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?