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【何がすごい?】5分で学ぶ、ドナルド・ジャッドの生涯や代表作を解説!

カラフルで抽象的なボックス。
これは家具でしょうか?それともアートでしょうか?

この彫刻作品の作者は、ドナルド・ジャッド

ジャッドの彫刻作品は、今でこそシンプルでありふれているようにも見えますが、戦後のアメリカ美術に変革をもたらした芸術家として、高い評価を受けています。


ジャッドは、アルミニウムやコールテン鋼など産業素材と呼ばれるものを、芸術に導入した抽象的な彫刻が特徴的。

この記事では、色彩・形態における純粋性、空間と作品の関係性を追求したジャッド作品について、経歴をたどりながら、その魅力や特徴を解説していきます!


1. ジャッドの生い立ちと美術評論家としての頭角

 

ドナルド・ジャッドは1928年6月、アメリカのミズーリ州生まれ。10代半ばまでに、6回の引越しを経験しながら、11歳で美術教室に通い始めます。

高校卒業後、ジャッドは1946〜47年にかけて朝鮮戦争に従軍。その後、ニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグで絵画を学び、コロンビア大学で哲学を学びました。

 

絵画への不満

1950年代から本格的に絵画を制作し始めますが、当時のこれらの作品は彼のカタログ・レゾネ(全作品目録)には含まれていません。1952年に最初のグループ展を開催し、1957年には抽象表現主義の初個展を開催するも、自作に不満を抱えていました。

1958~1960年、コロンビア大学の修士課程で美術史を学び、在学中から美術雑誌に展覧会評を書いて収入を得るようになる中、1950年台半ばから1961年まで、ジャッドはウッドカットのメディウムの研究を始めたことをきっかけに、どんどん抽象的なイメージの方向へ変化し、物質性がジャッドの作品の中心となります。

彼はこの時期、展示する価値があると判断した作品のみを展覧会で披露しました。

 

批評家としての活動

作品制作の傍ら、1957年〜62年にかけて、ジャッドはコロンビア大学で美術史を学び、ルネサンス建築から20世紀美術に至るまで幅広く研究しました。

1959年〜65年までは、アメリカの主要な美術雑誌に美術評論を執筆。「アーツ」誌にも寄稿し、抽象表現主義以降の芸術について多くの言及をしています。この頃から、ジャッドは従来の物語的な絵画様式から離れ、絵画の物質そのものが自律する方向へ移行し始めます。

   

2. 立体作品への傾倒

 

1962年、ジャッドはついに絵画の制作をやめ、レリーフ状などの立体的作品の制作を本格的に開始します。

彼のこの時期の作品は、木や金属パイプを使用し、同形のユニットをそれと等しい間隔で壁の上下に重ねるように設置する「スタック」や「ボックス」、数列に基づいて部分体表さが決められ壁に設置される「プログレッション(=数列) 」などのシリーズを発展していきます。

当時、ジャッドのこれらの作品は、絵画でも彫刻でもない、工業的なプロセスを用いた小さな製造者によって制作されたものであることを指摘されました。

 

ジャッドはあるディスカッションで、「本物の芸術家は自分たちで芸術を作る」というマーク・ディ・スヴェロの主張に対して、「結果が芸術を生み出す限り、方法は重要ではない」と異を唱えています。

さらに1964年、ジャッドは『明確な物体(スペシフィック・オブジェクト)』という論考を発表し、ヨーロッパ的な美術価値観を拒否しながらも、アメリカ現代美術の新しい領域を探求していきました。

 

個人的なスタジオと展覧会

1968年、ジャッドはニューヨークのSOHO地区、スプリング・ストリートにある建物を購入し、アトリエとして使用し始めます。彼はそこで、キュレーターの介入に寄らないかたちで自身の作品を常設展示しはじます。

その後25年間、ジャッドはアトリエのあるこの建物を一階ずつ改装し、時には自分が購入した作品や他のアーティストに依頼した作品を設置しました。

ジャッドはポロックやニューマンの絵画を高く評価し、とりわけニューマンとは親交が深かったそうです。歴史的に見ればジャッドの芸術観は、物語や象徴への従属を脱するために物質性を強調する19世紀以後の絵画思想の最後に位置づけらます。

   

3. 建築とインスタレーション、新しい素材の導入


1970年代初頭、ドナルド・ジャッドは家族と共にバハ・カリフォルニアへ旅行し、そこでの砂漠の風景に深い影響を受けます。

そこからの行動は早く、1971年にテキサス州のマーファという町に家を借り、その後、多数の建物と1.4 km²の広大な牧場を購入し、「アヤラ・デ・チナティ」と名付けました。

芸術・建築・自然を結び付けて全体を構成することを目標としていたジャッドは、購入した廃屋を段階的に美術館に改装し、砂漠の土地に巨大な屋外インスタレーション作品を設置。

この時期から、ジャッドの作品は大規模で複雑な形状へと進化していくことになります。

1970年代から1980年代にかけて、ジャッドはヨーロッパの古典的な具象彫刻の理念とは正反対の、根本的な彫刻作品の制作を開始。そこには芸術作品が自立し、単に存在するものであるべきだと考えがありました。

 

素材の探求

1972年頃から、ジャッドは耐久性の高い合板を作品の素材として使用し始め、これにより作品の大きさを拡大することが可能になります。1980年代に入ると、屋外作品の素材としてコールテン鋼を使用し始め、これは彼の作品に新たな次元を加えました。

さらに1984年、ジャッドはスイスのLehni AGからの依頼により、アルミにエナメルを塗った作品の制作を始めます。

これらの作品は、色彩の可能性を広げ、1つの作品に複数の色を用いることを可能にしました。

 

チナティ財団

先ほど出てきたチナティの地でジャッドは、自身と同時代の芸術家たちのための非営利芸術財団として「チナティ・ファンデーション(Chinati Foundation)」を1986年に設立し、美術館の運営をはじめています。

当初はドナルド・ジャッドのほか、ジョン・チェンバレン(1927-2011)、ダン・フレイヴィン(1933-1996)の3アーティストの作品のみを展示していましたが、現在は11人のアーティストの12作品を常設しており、ガイドツアー付きで一般公開されています。

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