不足から充足へ
全員が美味しいという料理は、この世に存在しない。
中華の鉄人として有名な陳健一さんの言葉だ。料理のプロフェッショナルとも思えない一言だが、なるほどその通り、料理はまさに属人的な作業である。人気のレシピはあれど、万人にウケる味はない。同じメニューを料理本片手に作っても、人が違えばすべて違う味になる。使う鍋の種類、コンロの火加減、具材の切り方。さまざまな要因が異なる結果を生む。自分が美味いと思っていても、相手がそうとは限らないのが料理の醍醐味だ。
新書『「コト消費」の嘘』は、体験をベースにした「コト消費」の正体に迫る1冊である。今はモノを売ることだけ追い求めても売上は見込めぬ時代。ただ、「コト」だけを用意しても消費につながるとは限らない。「コト」と消費を接続させる巧みな仕掛けが必要なのだ。本書では近年オープンした大型商業施設を例にとり、それらの施設の「コト」がどこまで消費と紐付いているかを指数にして分析している。GINZA SIXのような都心の施設だけでなく、LECTやイオンモール常滑のような郊外施設にも言及し、これらに何が足りないかをズバッと指摘する。
「コト消費」という言葉だけ見ると代理店的なうさんくささを感じるが、実は日常的に起こりえることだ。例えば、お弁当を作るシーンを思い浮かべてほしい。買ってきたり食べに行ってもいい昼食に、わざわざ手作り料理を出すのは相応の理由がある。子どもの遠足だったり、彼氏とのお出かけだったり、妻や夫へのお弁当だったり。そのために、料理教室へ通ってみたとしよう。料理教室で実際に調理過程を体験してみると調理器具や料理の素材がどういう役割を担っているか、丁寧に教えてくれる。充実したレッスンを終え、自宅に戻って自分の部屋のキッチンを改めて眺めてみる。圧力鍋を買ってみようか、新しい調味料にチャレンジしてみようか、初めて買う野菜を試してみようか。料理教室で見たものを思い出し、消費意欲が湧いてくるのではないか。
ハーバード・ビジネススクールの教授であるヤンミ・ムンが著書『ビジネスで一番、大切なこと』で差異同一化について指摘したように、私たちはすでに品質の違いで商品を選ぶことができなくなっている。消費の動機は「不足」ではなく、「充足」に移行しているのだ。そのため、商品・サービスによって何を充足させることができるかが明確にならないと消費行動は喚起されない。消費後の充足した姿をイメージさせる「背景=物語」に、私たちは消費意欲をそそられるのである。
消費する側の変化に、商品・サービスを提供する側もついていかなければならない。ただ、残念ながらそれができている企業はあまり多くないのが実情だ。なぜお金を払うのか。『「コト消費」の嘘』はこの実態を垣間見れる1冊だ。