鬱でも生きている
久しぶりに主治医と言い合いになった。毎週通い続けている心療内科のカウンセリングは、私の直近の悩みの吐き出し場所だ。でも、いつになくイライラがつのっていたのかもしれない。いろいろ否定された気がして、そうじゃない、という問答を繰り返していた。
鬱と診断されて、そろそろ7年くらいだろうか。仕事の疲労が身体に現れはじめて、マズイなと思って、病院に行ってそのまま薬をもらった。家の近くのクリニックを予約したと思っていたら、心療内科は分院で、電車とバスを乗り継いでいく場所だった。そんな面倒な通院を続けている。
心の風邪だから、薬ですぐ治ると思っていた。
それなのに7年間、週に一度の通院を続け、カウンセリングを受け、微妙に薬の量や種類を変えながら、生きている。
鬱でも、生きていける。
周りの配慮や協力のおかげで、妻のがんばりのおかげで、恵まれた世界で、生きている。
ときどき、なんで私は鬱なんだろうと思う。周りにも鬱の人はいっぱいいて、そうじゃなくても生きづらさを抱えてる人はいて、私はいまなんとか仕事も続けながら、つらいことも、面倒なことも、失敗して怒られることも、いっぱい経験している。
はじめて鬱と診断されるとき、少なからずショックを受けると思う。自分がまさか、とか元気なのになんでとか、まだやれるはず、という思いと、やっぱりそうなんだ、無理してたんだ、名前がついて少しホッとした、という気持ちが織り混ざって、混乱する。
その最初の混乱は、とてもしんどいはずだ。そして、思った以上に自分の心や頭の中はコントロールできないことに気づく。
鬱でも、外で遊んでいていいし、笑って過ごしててもいい。友達に会ってごはんを食べて、映画を見たり、のんびり散歩してもいい。元気が無くて、一日中寝ててもいい。
私もうしろめたい気持ちと常に戦っていた。自分なんかが申し訳ないとか、こんなことしてていいんだろうか、とかその戦いとの繰り返しで、だんだん鬱と付き合いながら、日常を過ごすことができるようになってきた。医療費の補助も健康保険の保障もいっぱい使っている。
今でも急にダメになることもある。ダメになっても仕方がない、と諦めている。いつの間にか散財してよく家に荷物が届くようになったら、だいたいダメなときだ。
正直、自分がいなくても世界は回る。だから仕事はいつでも辞めたっていい。それでも、きっと必ず回っていく。自分もきっとなんとかなる。いつでも今の役割を辞められる、今を変えられる、と思える人は強い。
マラソンで足が止まって、歩き始めた選手をテレビのカメラは追わない。でも見えなくても、歩き続ける選手がいる。走れなくても、歩き続ける。
主治医は、人と関わって生きている以上はいつだってしんどいことがある、と言う。でも、人と関わらないと生きていけない。だから、しんどさを軽くするための道具や薬をたくさん持っていたい。
誰も見てなくても歩き続ける人は、とても素敵だ。ゆっくり、ゆっくり歩いていく。