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「読書の日記」に憧れる。

「コーヒーとお酒と食事と静かな時間」がテーマの初台のカフェ「フヅクエ」。そのオーナーの阿久津隆さんの著書『読書の日記』を読んでいると(ウェブ版はこちら)、私もうっかり思ってしまう。

「読書の記録、してみたい」と。

阿久津隆さんの『読書の日記』を読んでいてわくわくするのは、「生きながら読んでいる」「読みながら生きている」ということが伝わるから。

ひとりの(スマートな)人間のthought processを、「読んだ本の記録」で追うことができる。

毎日吸収されていく言葉と、そこから生まれる言葉を読む進めるうちに、紹介されている本を知らなくても(自分の読書経験の乏しさを突きつけられる)、著者の「心の動き」がもう、東京を舞台にした大冒険なのだ。

とても可愛らしく、可愛らしい表紙からは想像がつかない分厚さがまたチャーミングで。今日もまた数日分、読み進めていく。

本について詳しくは、ぜひこちらで。

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自分の心の状態を言葉にできなくても、手にしている本を見たらわかる、とは昔から気づいていた。

中学生の頃につけていた読書日記には、読書感想文のはずなのに好きな男の子とやっと交わした会話や、友達と喧嘩したことばかり綴られていた。かっこよくいうと「自分というフィルターを通して見ていた」。普通に考えると「自己中」。

大人になってからも、心の状態が知りたいから、というより心を安定させるために読後の本の感想をノートに書いてきた。

20代後半の仕事が一番苦しかった頃、鬱状態になっていた私を支えてくれた小説の数々は、今でも覚えている。あの時代に読んだ本を今、書店で見かけると、エレベーターのない4階のワンルームマンション(建物はなぜかピンク)、冷蔵庫にないと不安だったオリオンビール、窓から見下ろす米軍基地、昼間の米軍ジェット機、夜中の暴走族の騒音、ヤモリのキィキィキィという鳴き声、全ての音や色が蘇ってくる。(そう、私は沖縄にいた。)

気持ちが落ちて仕方がなかった時、前へ進むために必要だったのが、「本を読み終える」ことと、「その本にもらった希望を書く」ことだった。人は目標さえあれば、諦めずにいられる。小さなところでそれを実感していたように思う。

仕事が終わると部屋に戻り、アメリカの母と泣きながら電話で話してから、本に逃げた。

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あの頃に比べて、今はわりと安心して本が読めるようになった。そして本を読むと、必ず何かを書きたくなる。

でも私の「完璧主義」がそれをブロックする。

ちゃんと心がまとまるまで書かない、というそれが、noteを書こうとする私の邪魔をする。お願い、どこかに行って。アメリカに帰って。と思う。

そんな私が少しずつでも書いていけるかもしれない、と思わせてくれたのが『読書の日記』だった。それはもう、衝撃だった。(そう思わせる阿久津さんの文章力やテクニックが素晴らしいのだが。)

『読書の日記』を読んでいると、読み途中でもいいから、今日は喫茶店で何ページ読んだ哀しくなった、とか。このフレーズが響いた、とか。読後の考え抜かれた書評ではなく、「読んでる最中」の記録をつけてもいいんだ、と解放された気になった。

阿久津隆さんのように日々のことを文学的に表現できるかといえば表現できないけれども、毎日たくさんの文字を追い、その文字のおかげで頭や心に変化が起き、昨日まで理解できなかったことがクリアになる、といったプロセスが記録できたら、それはすごく嬉しいことのように感じる。

私にとって「本を読む」プロセスは、「日本を知る」プロセスと直結している。

子供の頃からアメリカ文学には(ある程度)触れていても、日本の作品は情けないほどに知らない。私が読む本を見て「こんなことも知らなかったの」と思われること間違いなしなのだが、本を通して「ひとつの文化を知る」という目的で、「名作」と呼ばれるものから現代の名作まで、ジャンル関係なく読み進めていきたい。

日本の小説を読むこと、日本人の考え方を知ることで、それは自分のルーツの「??」な部分が理解できるかもしれない。

そういう大冒険の中にいる気が、今している。




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