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自虐をやめられないのは、あなたの心が弱いわけでも能力が低いわけでもなくてね、


早速本題に入りますが、自虐をしてしまうのは決してあなたの心が弱いとか能力が低いとか何かにおいて人より劣っているからではありません。あなたが自虐をしてしまうにあたり、「あれのせいだな」とパッと思いつくような原因は、本当の発端ではないのです。認識しづらいところに問題があり、それゆえに自虐をせざるを得ない。

その問題を言い当てても、あなたの自尊心が脅かされることはないでしょう。ご安心ください。しかし、あなたはもっと大きな問題に直面することになるのです。

これは他人の人生を垣間見て得た又聞きの情報ではありません。どこかの本に書いてあった人間の真理とか哲学とか、そういうものでもありません。私自身と、私の周囲の人間の実生活から得られた、生の経験であり、痛みに満ちた結論の話です。

息を吸って吐くように自虐

私は自虐的な人間だった。だった、と言っても今でもその傾向はある。とはいえ、昔よりははるかにマシになったのだと思う。

大学生の頃は一日のうち意識のある間、つまり18時間ぐらいのうち96時間ぐらいは自虐的なことを考えていた。計算が全く合わないが、体感としてそれぐらい考えていた。懊悩も頂点まで達すると時間軸を超越するのである。

詳しくは割愛するが、自分の中で思うところがあった。こうなりたいとか、かくあれかしという目標があり、それが達せないことに深い挫折感と疲労、もがきと闘争、諦念と怒りがあった。そしてそれらを逡巡しているうちに、行きつけの喫茶店みたいに自虐にたどり着き、いつもの椅子に着席し、そこに書いているお決まりのメニューを口にしていた。「どうせ自分は」。

その当時の考えとしては、自己理想を達成するために努力をし続けること、それが唯一の解決策であった。そしてその努力が叶わなかったとき、限界に来たとき、そっと努力のハシゴを降り、堕落と自虐の谷底に落ちて、地の底から薄っぺらい青空を見上げていた。

どうしてうまくやれないのだろう。あの人はあんな風にできているのに。もっともっと努力を重ねなくてはならない。でも、もう疲れた、しかし上昇せねばうえには上がれまい・・・。

何かに激しく追い立てられながらハシゴを登るか、疲れて地上に降りて安穏と自虐の布団に沈むか、その二択で生きていた。自己理想を達せない人間は、こういう状態に置かれることが、普通のことだと思っていた。その考えに亀裂が走ったのは、ある後輩との出会いによるところが大きい。

自虐と卑屈の帝王

仮にその人をRとする。Rさんは大学時代の後輩だった。同じ学部で、共通科目を受けていたことが知り合ったきっかけだ。課題で一緒にチームを組む過程で顔見知りになり、会えば多少は話をするようになり、Rさんが奇特なことに私の付き合いづらさを受容してくれたために、私の大学時代のうちの数少ない知人となった。

「先輩はいいですよね」。それがRさんの口癖だった。

人知れぬ努力と堕落の自虐を行ったり来たりする人間の、どこか羨ましいものか、と思ったが、Rさんには違うものが見えているらしい。Rさんは私に輪を掛けて自虐的な人間だった。私も大概だが、Rさんもなかなかのつわものであった。だからこそ接近し合えたのかもしれない。そして彼女は私を羨ましいと言いつつも、どこかそういったことを洩らしても良い人間だと、私のことを見抜いていたのかもしれない。

Rさんが就職に行き詰まっていると言い、彼女の相談に乗ったことがある。喫茶店の煌々とした照明のもとに照らされた、彼女の白い頰の肉はごっそりと削られていた。ウォームカラーのランプの光でも隠せないほどに青白い。久しぶりに会った彼女の目には覇気とは異なる、奇妙な強さがにじみ出ていた。そしてその強情さを包み込んでいる肉体は弱く脆く疲弊しているようだった。

どうしたの、と聞くとRさんはポツポツと語り始めた。どうやら彼女はアナウンサーを目指しているらしい。キー局から地方局まで受けたが、エントリーシートの段階で落とされてしまっているそうだ。

アナウンサー業は女性の場合、厳しく容姿を問われるという。想像に難くない。Rさんは養成所に入り、面接対策をする傍ら、見た目に関して厳しくチェックを入れられ、体型にも口を出されているらしい。半年ほどで痩せたのも、ダイエットの成果だと言う。それでも生まれつき華奢な人たちが揃っている中では、まだ減量が足りないと講師から激が飛ぶ。そうしている間に、他に養成所に通う仲間には、面接通過の案内が出ている。もう後がない。

「どうせ私なんて、ダメなんですよ」
「私の努力が足りないんでしょうか」
「私が食べちゃうから、食べちゃいけないのに」

Rさんは私に不快にならないように、丁寧に自分の感情を抑えながら話してくれた。しかし、その配慮の奥には、凄まじい自責と自虐が渦巻き、彼女を押し倒し、凌駕しようとしていた。

「アナウンサー以外の選択肢はないの?」私は聞いた。Rさんは真面目だし、優秀だからアナウンサーはダメでも、他の普通の企業なら欲しいところも出てくるだろう、場所を変えれば受け入れてくれるはずだ。

するとRさんは遠慮しがちに、「スチュワーデスも受けている」と教えてくれた。しかし、こちらも採用人数が少ないし、難関である。こちらもこちらで別の養成所に通っているが、講師に相当手厳しく言われているらしく、望み薄だそうだ。Rさんは講師に言われていることができない、足りない自分をせめていた。

「アナウンサーやスチュワーデスにならなくちゃいけないのに、どうして私はダメダメなんだろう」彼女はティーカップの細い取っ手を折れそうなほど強く握っていた。

私はあることに気がついた。

「なんでアナウンサーやスチュワーデスにならなきゃいけないの?」
「え」
「どうして難関のところに行こうとするの」
彼女は綺麗にエクステで縁取られたまつげでパチパチと目を瞬かせた。
「もう少し言うと、どうしてわざわざ容姿で評価されて、自分が苦しまなくてはいけないところに飛び込もうとするの?Rさん、普通の企業を受ければ通るところもあると思うよ」

Rさんの瞳は奇妙な方向に揺れ始めた。自虐で彩られていた彼女の言葉が少しづつ歪み始めていた。

華やかだし、憧れるからだとRさんは話してくれた。憧れると言うだけで、そこまで拘泥するわけはない。養成所には多額のお金がかかるはずだ。Rさんのそれっぽくふんわりした動機をかわし、私は一歩踏み込んだ。自虐の一本通しと言う隠れ蓑が崩れた先には、個人の弱さがある。私が全ての自虐を聞き入れずに、真の動機だけを追及していったら、とうとうRさんは吐露してくれた。それが昔から母親の望みだったと。これが成功した人生の最高の結果だから、諦めることはできない。そう彼女はどこか放心したように答えてくれた。

自虐の正体

私は気がついてしまった。彼女があらゆる隙に自虐的なことを言ってしまうのは、自虐することによって、自分の理想をそのまま保持し、至らない自分を責めることで“目標を見直し、疑い、修正する”と言う手段から目を逸らしていることに。

私も自己理想に対して、努力するか諦めて自虐するか、の二択だと思っていた。しかし、本当は“自己理想を見直す”と言う選択肢もあるはずだ。それを無意識に避けていたのは、自分に「なぜそうならなくてはならないのか?」と言う疑問を突きつけ、自分の中に君臨している絶対的な価値観を疑いたくないからだった。

自虐しがちな人は、総じて謙遜的で優しいことが多い。そして自分のことを豆腐メンタルとか心が弱いと自称する傾向がある。しかし、こと自分の理想に関しては思わぬレベルで強情で、プライドが高い。自分の理想を捨てきれない理由を問い、見直すようにやんわりと差し向けると、自虐することでかわす。私が悪いんです、わかってるんですけどと言いつつも目標やあるべき理想はキープし続ける。自虐する人は自虐で困っているように見えて、実は助けられている側面もあるのだ。だからこそ、やめられない。

そこまでして直面したくない、自分の絶対的な価値観とは、Rさんのように両親から与えられた無意識または言語的な「理想」が関係していることが多い。

両親を喜ばせたい、母親の喜ぶ顔が見たい、誰かを見返してやりたい、世間に認められたい、かくあれかしと言う幸福を自分も得たい、そういった小さくて弱くて認めがたい欲求が個人を支え、振り回し、守っている。対面的にはとても恥ずかしくて出せないような理由、しかしそれが個人の行動動機の全てであったりする。

もちろん、私もその範疇から逃れられない。情けない自分を認めたくなくて、自分の価値観を疑う底知れぬ恐ろしさから逃げ続け、目標を達成するために頑張るか、自虐に走るかをし続けてきたのだ。私はRさんと言う似たような他人を通じて、それを悟った。自虐の末に守り通そうとしているものに、気づいてしまった。

心理療法のカウンセリングでは、これと同じことをしているのだろう。クライアントの話を聞き、悩みについて考えさせる役割を果たしている。カウンセラーが方略や答えを与えないのは、自分の価値観を見直し、疑うためでもある。価値観を丸裸にし、崩壊させるのは個人では容易なことではない。だからこそ、誰かが同伴することが望ましいのだろう。

自虐をやめる

私はざっと考えたことを、Rさんに伝えた。彼女はさっと要点を理解してくれた。

「先輩の言っていることは、たぶん、正しいと思います。でも・・・」

そう、「でも」が必ず続く。言っていることはわかります、「でも」やめられないんです、と来る。これは頭で理解したからと言って、簡単にはやめられない。自分を支えてきた価値観、これに基づいて生きていきた支えを失って生きることは容易ではない。すぐにいつもの考えに戻ってしまう。特に、彼女のように実在の、自分にとって重要な人物からの無言の圧力や要請があるなら、なおのことだ。

自分が頑張り続ければ、目標を達成できるという幻想を捨てきれない。だが、実際には自分が絶対にたどり着けないところに到達点を置いていることが多いから、達成はほとんど不可能である。そして、それに薄々気がついているので、自虐することで設定に無理があることから目をそらしている。

私とRさんは異なる人生を生きながら、似たような苦悩を有している。

「許せ」
「え?」
私は言った。Rさんに。そして、私に。私自身には決して、言えないようなことを。

「許してあげて」

自己理想を叶えられないことを。人間の弱さゆえに、生じている価値観を。それに支えられている自分を、振り回されている自分を、それを直視しないための言い訳を用意している自分を、許してあげて。

泣きじゃくりながら母親に必死にしがみつく子供の手を、そっと剥がすように、自分を縛っているものを少しだけ客観的に見て、許してあげて。今すぐにはできないし、たぶんしばらくは、もしかしたら数年は自虐とこれまでの価値観を行ったり来たりするだろうけれど、それでも少しづつは変わっていける。自分の弱さは認めることができれば、質が変容するものだ。

Rさんはその場ではうなづいてくれた。おそらく、自宅に帰ってからは、また煩悶と自責に囚われるのだろう。でも私の投げた一撃が、Rさんの人生のうちできらりと光って本当に行き止まりになった時に、別の選択肢を照らしてくれるといいと思う。これは祈りでしかないが、他人の人生には祈る以外のことなんてできない。

私が大学を卒業したのち、Rさんは一般企業に務めたとその後、メールで教えてくれた。ブルーライトの上で光る文章を見る限り、彼女は元気そうでそれなりに幸福のようだった。周囲の環境や期待は見えない形で、まだRさんの近くにいるのだろうけれど、少しづつ前進しているようだった。

私の人生には、私が取り残され、私の理想と現実が手元に残っている。すべてを諦めるのは簡単なことではない、しかし、自虐の堪え難い苦しみからは、距離の取り方が掴めてきたと思う。自虐から少しだけ離れて見ると、自分がいかに視野狭窄に囚われていたかがわかる。目を転じて見ると、そこにはまだ曖昧模糊とした名前のつかない空間があるのだ。きっとこれが可能性であり、自由ということなのだと思う。


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