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直談判。3ヶ月先住民の村に滞在してもいいですか?
小さなボルネオ島の民芸品店を営んでおりますラヤンラヤンです。かつてマレーシア・ボルネオ島サバ州にある大学院の人類学コースにて、先住民「ドゥスン人」の研究をしていました。
大学4年生で進路変更
大学院に進学したいと思った時にはすでに大学4年生でした。大学3年生で関心を持ち始めたボルネオ島。4年生の時に初めてその地を訪れました。10日間ほど先住民ドゥスン人の村にホームステイしたことがきっかけで、ますますその地のことやそこに住む人、暮らしや文化について知りたいと思うようになりました。
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大学院志望の学生は早くから準備をしているので、卒業後すぐに進学できないことは覚悟の上でした。志望大学の出願基準には、非英語圏出身の志願者には大学が基準とするTOEFLもしくはIELTSのスコア証明書の提出が必要でした。私はIELTSを選択し、まずはその勉強から始めました。
そして、もう一つ重要なことがありました。私が志望する分野、人類学には調査対象地へ赴き、その土地の方と生活しながら情報収集していくフィールドワークがあります。
先住民の村に長期滞在してみよう
当時の指導教授は、フィールドワークの際に果たして私一人で奥地の村で生活していけるのか。村の方と打ち解けることができるのだろうか…ということを心配されていました。そこで、大学院に出願する前に、まずは村に長期滞在してみたらどうかということになりました。それと同時に、マレー語とドゥスン語も現地で習得しようということになりました。
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といえども、そもそも村の方が許可してくれるだろうか。1度しか訪れたことのないボルネオ島の村。マレー語も現地語も話せない外国人を慣れないジャングルの奥地の村で引き受けてくださるのか・・・!?
現地の先生とガイドさんにその旨はお伝えし、村の方にも訪問することだけはお伝えしました。あとは現地で直談判でした。
片道航空券を握りしめて、2度目のボルネオ島へ
大学を卒業し、いよいよ2度目のボルネオの地へ!マレーシア・サバ州に滞在できるのは90日以内。ダメだった時は次の手を考えるしかないが、期待を込めて・・・片道分の航空券だけを持って飛び立ちました。
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村までは熱帯雨林の中をジャングルトレッキングしました。前回訪れた時とはルートを変更し、7時間のトレッキング後、途中の村で一泊。翌日は4時間のトレッキングを経て目的地の村に到達しました。
一年ぶりの村。前回は団体で訪問したので、村の方は日本人グループがホームステイしたことは覚えていらっしゃいました。しかし当時の私はマレー語もドゥスン語も話せなく、村の方と深く交流できなかったので、もちろん私のことは覚えていませんでした。
村の方に直談判!
村に着いてからはホームステイさせていただくお家でシャワーを浴び、ご飯をいただきました。日が暮れ、村の方がどんどん集まってきました。村の方は私を受け入れてくださるだろうか…期待と緊張が入り交じっていましたが、これからどうなるかわからない未来に胸が高鳴っていました。
「村に3ヶ月弱ホームステイさせて頂きたい!」
「村の暮らしを学び、とけこみたい!」
「マレー語とドゥスン語を学びたい!」
指導教授やのちのちサバ州の大学院で指導教官になる先生、現地ガイドさんにもサポート頂きながら、村の方に思いを伝えしました。
ドキドキ・・・ドキドキ・・・
なんと村の方の応えは・・・「いいよ!!」
当時の情景と感情は本当によく覚えています。新しい世界に飛び込むことへの高揚感。とにかく学びたいという気持ちに溢れていました。まずは村の生活にとけこもう。そして早くマレー語とドゥスン語を習得して、村の方と意思疎通が図れるように頑張ろう。そんな思いでいっぱいでした。
そして、先生方とお別れし、日本人一人、村での生活が始まるのでした。