大怪獣のあとしまつを描いた『怪獣の日』と笑いについて
公開初日から酷評の嵐が吹き荒れている『大怪獣のあとしまつ』。
酷評の理由は、予告編等から『シン・ゴジラ』(2016年)的なシリアスな怪獣映画という期待を抱かせながら、実はギャグ映画だったいう裏切りと、それでもそのギャグが面白ければよかったものの、作中で繰り広げられるギャグがことごとくつまらないという、二重の期待外れになると思う。
『怪獣の日』について
自身も、『大怪獣のあとしまつ』の予告映像を観た時、期待感が高まった。それは、『怪獣の日』(2014年)を想起させられたからでもあった。
『怪獣の日』は、ぴあフィルムフェスティバルに出品された30分ほどの短編映画で、まさに大怪獣のあとしまつを描いた作品となっている。
静岡県のどこかと思われる架空都市を舞台に、海辺に打ち上げられた大怪獣の死骸をどうするべきか、死骸の研究を行おうとする研究者、海辺に怪獣施設を作ろうとする国の行政、国からの助成金をもらおうとする地方自治体、それに対して反対運動を起こす住民たちの姿が描かれる。
低予算の短編映画であり、大怪獣が暴れまわるシーンもないし、役者はびっくりするくらいの棒読み演技(特に年配の研究者)だったりするが、わかりやすく大怪獣の死骸が核廃棄物のメタファーとなっており、その着眼点が面白かった。
しかし、一点、不可解なシーンがあった。
怪獣施設建設を推進する官僚が、苦悩する主人公の若手研究者に声をかけるシーンがある。流れからして、シリアスなシーンである。しかし、突如、官僚が「踊ろうか?」と若手研究者に手を差し出し、自らリズムを取ってヘンテコな動きをする。
これは、一体どういう意味なのだろうか?ナンセンスギャグのつもりなのだろか?という疑問だけが頭に浮かび、ギャグシーンだったのかもしれないが、全く笑えなかった。
笑いについて
『怪獣の日』の「踊ろうか?」シーンは笑えなかったし、『大怪獣のあとしまつ』で繰り広げられるギャグも、笑えなかった。
何によって笑いを感じるかどうか、所謂笑いのツボというのは、人によって異なるであろうし、普遍的絶対的なものはないと思うが、個人的に笑いを感じるのは、「予想」が「ギャップ」によって裏切られた時である。
具体性のない予感というよりも、より具体性のある「予想」であり、その具体性が強ければ強いほど、ギャップが起きた時に笑いを感じる。
そのギャップを生み出す構成要素は何かを考えると、まずは、安全性が確保されている点がある。
例えば、急斜面を疾走している男が、クッションが敷かれた落とし穴に落ちれば喜劇になるが、崖から落ちて死んでしまったら悲劇になる。そのため、ギャップの構成要素として安全性が必要となる。
もう一点は、必然性である。正確に書くと、部分的な欠如がある「6w1h」で説明可能な必然性が伴うこと、といえる。
本来するべき人でない人が何かをしていたり(「who」の欠如)、本来されるべき人でない人が何かをされてたり(「whom」の欠如)、本来するべきでない時間であったり(「when」の欠如)といった具合である。
この場合、「6w1h」の欠如が部分的である必要があり、欠如以外の要素で必然性が伴っていなければならない。そして、「6w1h」の欠如がたった一つだけの場合、もしくは複数の欠如であっても強い必然性が伴っていると、笑いとともに「上手いな」という感想になる。
しかし、それが「6w1h」の全て、もしくは多くの部分が欠如していると、笑いでなく「意味不明だ」という感想を抱くことになる。
『大怪獣のあとしまつ』で、「怪獣の死臭はウンコとゲロどっちの匂いか」を政治家が大真面目に議論するシーンがあるが、このシーンも「なぜ国家危機にウンコとゲロを議論しているのか」という違和感があり(whyやwhenやwhatの欠如)、「それを政治家が大真面目に国民向けに議論している」という違和感があり(whoやwhomの欠如)、つまり、多くの6w1hの欠如があるため必然性がない。
結果、笑いでなく「意味不明だ」という感想に落ち着く。
先ほどの『怪獣の日』においても、突然「踊ろうか?」と言い出す官僚の姿は、多くの「6w1h」の欠如があり、必然性が伴っていない。あまりに唐突すぎる。そのため、このシーンを見て笑うことは難しく、頭にクエスションマークだけが浮かぶ。
サイレント期の喜劇王と呼ばれたチャップリンやバスター・キートン、ハロルド・ロイドの作品は、サイレント映画なので台詞はなく動きで見せる笑いとなるが、三者とも、ギャップを生み出す方向性(チャップリンはおとぼけおじさん、キートンは頑張っている人、ロイドは気弱で真面目な人)は異なるが、一様に、ギャップを生み出す際、必然性が伴っている。
チャップリンがよくやるギャグとして、チャップリンが腕を伸ばしたり振り回したりすると、背後にいた人に腕が強くぶつかって激怒させてしまうといったシーンがある。
この場合、チャップリンが腕を振り回す理由はちゃんと明示されており、背後に人がいる理由も明示されている。そして、背後にいた人が激怒する理由も明示されている。だから、腕がぶつかって激怒するシーンに笑いが生まれる。
『大怪獣のあとしまつ』の期待外れ
『大怪獣のあとしまつ』は、このような必然性のないギャップが連発されており、だから、笑えなかった。面白いと思えなかった。
『大怪獣のあとしまつ』の予告編を見た時、『怪獣の日』を想起し、「『怪獣の日』の着眼点で、予算をかけた壮大な作品が見られるのか!」という期待が生まれた。
しかし、『大怪獣のあとしまつ』は『怪獣の日』と同様の着眼点を用いて、さらに『怪獣の日』の「踊ろうか?」シーンのような必然性がないギャップまで、同じ方法を用いているように感じた。しかも、その必然性がないギャップは、予算をかけ長尺なため何度も繰り出される。
だから、残念な作品だった。