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河瀨直美を批判した学者たちの嫉妬と妬み

昔から、映画監督・河瀨直美という人は好きではなかった。

インタビュー記事などを読んで、自意識過剰で高飛車な人という印象を持ったためだった。そういう人は苦手なため、好きになれなかった。しかし、河瀨直美の映画作品は素晴らしいと思っている。

『萌の朱雀』(1997年)を初めて観た時は衝撃に近い感覚を持ったし、最近の『光』(2017年)や『朝が来る』(2020年)も、カメラと被写体との独特の距離感やそこから生み出される雰囲気は、鮮烈な印象を与えてくれる。時折ワザとらしい台詞が飛び出し、彼女の自意識過剰なところが垣間見えるが、しかしそういうところが海外受けする一つの理由なのだろうなと思う。

いずれにしても、河瀨直美が日本を代表する映画監督ということは間違いないと思っている。

河瀨直美への批判

そんな河瀨直美が、近頃、作品以外のところで批判を集めている。

NHK五輪番組でのテロップ問題、東京大学での祝辞、暴行による映画スタッフ降板と批判が続いている。これらの中で、特に東京大学での祝辞に対する批判には、強い違和感を感じた。

河瀨直美の東京大学での祝辞は、彼女がロシアのウクライナ侵攻を肯定したという解釈でもって批判された。しかし、祝辞全文を読めば、河瀨直美がロシアを肯定する気などないことは明らかである。

そしてまた、河瀨直美の作品を観て、さらにネットで公開されている祝辞全文を読めば、何とも河瀨直美らしい文章と感じた人もいたのではないかと思う。

河瀨直美は、絶対的な善も悪もないという一般論を言ったに過ぎない。そして彼女は、そのまま言ってしまったらちょっと青臭いその一般論を、映画の中では、そのままというよりむしろワザとらしい台詞にする人である。

だから、河瀨直美らしい文章と思った。

そんな河瀨直美の東大での祝辞を政治学者が猛批判し、それに便乗してSNSで批判の声が拡がった。河瀨直美があの祝辞の文章の中でロシアを例に出すのはセンスがないと思うけれども、気になったのは、学者たちの批判コメントの方だった。

河瀨直美を批判した学者は三人いる。それらのツイートは以下になる。

侵略戦争を悪と言えない大学なんて必要ないでしょう。

池内恵(東京大学教授)

人間としての重要な感性の何かが欠けているか、ウクライナ戦争について無知か、そのどちらかでは。

細谷雄一(慶應義塾大学教授)

「どっちもどっち」論を、超越的な正義として押し付けようとする人々が、この社会で力を持っている

篠田英朗(東京外国語大学教授)

まともな読解力があれば、河瀨直美が一般論を言ってるだけということは当然にわかるはずで、それを大学教授という読解力が求められる人達が必死に批判している。

要するに彼らは、河瀨直美を批判したいんだろうなと感じた。

彼らのツイートを前後のツイートも含めて読むと、彼らは、河瀨直美の祝辞を批判したいというよりも、河瀨直美という人を批判したいという意識が透けて見える。

池内恵は、上記ツイート後に「通俗的な理解をするとこうなるという例。新しい学生が変えていってください。」「その場でウケのいいことを探して言うのは学問ではないと学生はこれから知るのです。」と発言を続け、暗に専門学校卒の河瀨直美をバカにするような意識が見え隠れしている。”専門学校卒の女が学問を理解するのは無理だ”みたいなところだろうか。

細谷雄一は、上記のツイート後も「安易な言葉で道徳的な優越的立場に立つことは、単なる知的な怠惰では。」という発言や、その後何度も河瀨直美の”無学さや知性の無さ”を主張しようとしている。

篠田英朗のツイートは、細谷雄一のツイートを引用しているため、”(こんな知性のない奴に)社会で力を持たれたくない”という意味に読み取れる。

これら三人の男性教授は、それなりの大学で教授職を務めているが、研究成果はぱっとせず、要職を務めるなどもなく、世の中的な評価もぱっとしない学者たちである。

専門学校卒で、しかも女の河瀨直美が世界的に評価されて、五輪映画の監督まで務め、更には東京大学という日本の最高学府で祝辞を述べることを”面白くない”と思っていることは想像できる。

「俺は東大卒だ。こんな専門卒の女よりも上だ。認めない。認めたくない」。そんなことは決して言わないだろうが、それに近しい気持ちはあるのだろう。それがツイート文に現れている。

学者のような知的とされる人々はプライドが高いし、”知的でない人”が知的とされることを忌み嫌うものである。その”知的でない人”というのは、本人が本当に知的かどうかではなく、学歴であったり、もっと古い価値観に凝り固まって、性別でもって知的でないと決めつけるような人もいる。

今の時代、森元首相以外、直接そんなことは口に出さないだろうが、実際にはまだまだ、学歴や性別による先入観や意識があるというのが実態だろう。

愚かな学者に便乗する人々

河瀨直美に対する嫉妬や妬みで正常な判断力を失った三人の学者は、「河瀨直美を批判したい」という気持ちが勝り、理性的な言論よりも感情的な議論に終始する、およそ学者がするべきでないことを選択した人達である。

そうすることで、まともな判断力がなく、まともな読解力もないということを曝け出した、やはりぱっとしない愚かな学者たちといえる。

そして、これら愚かな学者のコメントに便乗し、祝辞全文を読んでいると思えないコメントをSNSで発信する人々もまた、愚かである。

河瀨直美がこれらに対していちいち反論しないのも、他の多くの政治学者が三人の学者に追従して河瀨直美を批判しないのも、河瀨直美の祝辞を批判することは愚かということが自明だからだろう。

河瀨直美に対する嫉妬と妬み

多様性とか公平な社会と言っても、まだまだ男性有利で学歴社会である。そのため、映画監督という知的なイメージのある職業で、女性で低学歴なのに世界的に活躍する河瀨直美は、どうしても目立つ存在になる。

三人の学者に限らず、彼女への嫉妬や妬みは今後もあるのだろうと思う。

先日記事が出た、河瀨直美の暴行による映画スタッフ降板記事にしても、それが暴行と呼べるほどの暴力だったのかわからないが、いずれにしても週刊文春にリークしたのは降板した当事者でなく、第三者である。つまり、河瀨直美を陥れたい、そういう誰かがいたことがわかる。

園子温らの性的暴行は、被害にあった当事者たちの声であり、そこが、園子温らと河瀨直美の違いになる。

この映画スタッフ降板記事に対して、河瀨直美は、それは当事者間で解決済なので説明不要と言い切る胆力を見せてくれた。

多様性とか公平な社会のためには、ルール作りも必要だが、彼女のような人が、嫉妬や妬みの圧力につぶされず活躍できる場が必要だと思う。

河瀨直美のことは好きではないが、河瀬直美の作品は素晴らしい。そして、今後も活躍できるよう頑張ってほしいと願う。

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