ジェームズ・ボンドの性転換と寛容のパラドックス
先日、007シリーズの最新作『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』(2021年)を観た。007シリーズらしく、アクションとサスペンス、さらにはラブストーリーとしても楽しめる作品だった。
また、ボンド・ガール(ボンド・ウーマン)の描き方が、#MeeTo運動後最初の007作品ということを感じさせるものだった。
そして今作が、ダニエル・クレイグがジェームズ・ボンドを演じる最終作となる。そのため、次のボンドは誰が務めるのか?は注目されるところである。
そうした中、次のボンド役に対して「多様性の社会を反映して、ジェームズ・ボンドは女性にするべき」という議論が、数年前からなされている。
ジェームズ・ボンドの性転換
ジェームズ・ボンドは確かに、旧時代的な男性像の象徴のような存在といえる。そしてボンド・ガールは、女性蔑視の象徴ともいえる。特にショーン・コネリーが主役をやっていた頃の作品では、旧時代的な男性像と女性像が色濃く出ている。
だからといって、ジェームズ・ボンドという確立したキャラクターを性転換させる必要は感じない。
価値観は時代によって変わるものであり、時代の価値観を反映する映画は、時代の価値観を取り入れて作ればよいと思う。ジェームズ・ボンドの場合であれば、女性を欲望の対象としてでなく、女性へ理解を示すボンド像を作ればよい。
「ジェームズ・ボンドを女性にするべき」と主張すること自体は否定しないが、随分極端な意見と感じる。そして、極端な意見が危険なのは、他の意見を認めない場合があるところにある。
そういう他の意見を認めないことを肯定するために、時折持ち出されるのが寛容のパラドックスである。
寛容のパラドックスの悪用
寛容のパラドックスとは、
という哲学者カール・ポパーが発表した言説になる。
これはつまり、あらゆる寛容が認められる社会においては「暴力的に相手に言うことを聞かせる」強制行為に対しても寛容になる。だからその社会は、独裁者が生まれて全体主義となっていずれ崩壊する。そのため、不寛容に対しては不寛容にならざるを得ない、という逆説になる。
この寛容のパラドックスが、他の意見を認めないことを肯定するため悪用されることがある。
例えば、ジェームズ・ボンド性転換説の元になっている「多様性を認める社会」に、この逆説を当てはめるとどうなるだろうか。
この場合、「多様性を認める社会」を肯定する意見は正しい意見となる。反対する意見は「差別主義者」となる。そしてそれは「認めない」となる。なぜなら「差別主義者」には「不寛容に対する不寛容」だからである。
つまりこれは、「自分の意見に反対する人は認めない」ことを寛容のパラドックスを用いて肯定することになる。そしてこれが、寛容のパラドックスの誤用、もしくは意図的な悪用である。
当たり前だが、カール・ポパーは「自分の意見に反対する人は認めない」などということは言っていない。
「自分の意見に反対する人は認めない」がまかり通ると、「認めない」はすなわち「攻撃していい」ということになり、例えば捕鯨反対のシーシェパードや過激派ビーガンのような、暴力や破壊行為を肯定することになる。
多様性を認めるということ
カール・ポパーが書いているのは、不寛容に対する対話の必要性であり、「不寛容に対する不寛容」は、合理的な対話によって解決しない場合に発動するリーサル・ウェポンである。
「コイツは多様性を認めていない。だから、多様性に対して不寛容だ。だから、差別主義者だ。だから、攻撃していい」という寛容のパラドックスの悪用は危険である。
それは、「多様性」を「捕鯨」に変えても「菜食主義」に変えても、そして「ジェームズ・ボンド」に変えても同じである。
そのような寛容のパラドックスの悪用は、”正義感”という名のもとで行われる私刑、つまりネットでの誹謗・中傷にもつながると感じる。
ネットにおいてもリアルの世界においても、「不寛容」に遭遇した場合は、対話か無視である。それでも「不寛容」が続くのであれば「不寛容に対する不寛容」の発動である。
そして「多様性を認める」ということは、それが自身の安全を脅かすような存在でない限り、まずは、不寛容つまり反対意見に対しても寛容になる覚悟が必要ということだろう。