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誰だって、いつからだって、やり直せない。

牛丼チェーン吉野家取締役による「生娘をシャブ漬け」発言がニュースとなって、ネットでは非難が殺到している。

こういうニュースを見ると、

「またか」

という思いを抱く。

著名人の失言や不倫などが記事になって、ネットでワーワーと叫ばれる。当人たちは謝罪して、辞任もしくは解任、関係企業等も謝罪する。

ここ数年、コロナとウクライナ情勢以外、そんなニュースばかりな気がしてしまう。

こういうニュースを見ると思い出す映画がある。ダニー・デヴィート主演の『勇気あるもの』(1994年)である。

『勇気あるもの』のキャッチコピー

『勇気あるもの』は、失業した元広告マンと落ちこぼれ陸軍兵士たちの交流を描いた作品で、ユーモアの中に軍隊批判を織り交ぜ、感動も味わえる良作だった。

この作品は公開当時映画館に観に行ったが、内容以上に印象的だったのは、チラシにあるキャッチコピーだった。

誰だって、いつからだって、やり直せる。

この一言に深く感動したわけでもないのに、なぜか印象的で、ふとした時に思い出す。

そして、冒頭のようなニュースを見るとやはり、この言葉を思い出す。

『勇気あるもの』の公開から30年近くたった日本社会は、残念ながら、このキャッチコピーのような社会にはならなかった。

今は、誰だって、いつからだって、”やり直せない”社会である。

誰かの失敗を見つけて、指摘し、周りは大騒ぎする。そして、当人と関係者は謝罪に追われる。辞任もしくは解任され、やり直す道も閉ざされる。

こういうニュースを見て思うのは「謝って、反省して、やり直そうとしているなら、それでいいじゃないか」という思いである。

吉野家の件にしても、取締役の発言は明らかに不適切だし、ネットで大騒ぎとなった状況をみて、吉野家が彼を一早く解任するのは、炎上対処マニュアルに沿った行動で、理解はできる。

しかし、この取締役が行った発言は、早稲田大学内で行われた講義中の発言である。吉野家の公式メッセージでもないし、マスコミを通じたパブリックな発言でもない。

本人が不適切だったと思い反省するなら、受講者に対して謝罪し、対応策を明示し、吉野家や早稲田大学は、厳重注意して減給くらいで十分だろう。

失敗しない一番よい方法

人は誰でも、生きていれば失敗する。失敗を経験して反省し、今後、やり直そうと誓う。そうして成長する。

けれども今は、法律違反を犯したわけでもないのに、一度の失敗を大きく取り上げて、社会の敵として祭り上げる。失敗を認めない。やり直しも効かない。

随分とおおらかさを失った社会だなと思う。

今のおおらかさの無い社会は、バブル崩壊後、不景気とインターネット普及を背景に、アメリカ的な合理性への偏重と日本の村社会が組み合わさって生まれたと感じている。

企業をはじめ組織は、合理性が必要とされる。だから個人に対しては、合理性が評価軸になる。合理性が重視されると「成功する可能性が低いこと」は軽視される。そのため「成功するためにどうするか」ではなく「失敗しないためにはどうするか」という思考に傾いていく。

そうして辿り着く失敗しない一番よい方法は、何もしないことである。

することといったら、誰かがしていることをコピペするくらいになる。誰かが行う批判や非難に便乗し、気がつけば皆で批判と非難を行っている。イジメと似たようなものだろう。

合理性に偏重し、結果だけを評価し、経過を軽視すると、想定外の成功は生まれない。何もしないからである。バブル崩壊以降、日本経済は元気がない、産業が生まれない、起業家が育たないと言われるのは、そういう合理性への偏重がもたらしたと感じる。

合理性に偏重すると、失敗は悪となり、大人しく目立たないように、多数の中の一人でいるのが安全で、何もしないことが正しい世の中になる。そんな中、何かをした人が失敗する。すると村社会的な論理で、失敗した人は村八分とされる。社会にとっての敵として祭り上げられる。

そんな惨状を見れば、誰だって失敗を恐れ「失敗しないためにはどうするか」という思考に、更に傾いていく。行きつく先はやはり、何もしないことになる。

おおらかさを失った社会は、合理性への偏重と日本的な村社会の組み合わせによって生まれたと思うのは、そのためである。

やり直しが効く社会へ向けて

それは、企業という枠ではなく、個人においても同様に感じる。

SNSが浸透し、誰でも発信できる世の中になった。しかし同時に、発言する度に「批判されるんじゃないか」「非難を受けるんじゃないか」「炎上するんじゃないか」とビクビクすることになる。

そのため、個人の意見を発するだけでも「これは個人的意見です」「誰かを傷つける意図はありません」といった”断り”が常套句になる。

誰も傷つけない発言なんてない。もしあるとしたら、究極的な最大公約数を狙ったつまらない発言である。すべての角も牙も取れた誰にも嫌われない発言は、誰にも好かれない発言になる。

そのようにビクビクしながら発信することが問題ではなく、ビクビクさせる社会が問題と感じている。

ワーワー言われた企業や個人が、勇気をもってどこかで歯止めをかけないと、一億総ビクビク社会は加速するだけだろう。

意見を言うのもワーワー叫ぶのも個人の自由である。歯止めをかけるというのは、ワーワー言われた側の行動で、不倫したって「家族で話がついてます」で十分である。謝罪なんかしなくていい。講師として失言しても「社内で厳重注意しました」でいい。

謝罪の際には「周囲にご迷惑をおかけしました」というのが決まり文句であるが、周囲が勝手に騒いでいるだけである。勝手に騒いでいる人々に謝罪の必要なんてない。

それくらいの胆力を示して、それが成功となる事例を作らないと、企業の炎上対処マニュアルは書き換わらないし、こういうレベルの低いニュースもなくならないのだろうなと思う。

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