怪文書(2022/04/15)
Twitter、面白いですよね。困るんですよほんと。あと4ヶ月で院試ですよ。まあ、私としては特に急ぐ理由はそんなにないんですけど、でも最低限の”体裁”から逃げるわけにもいかないですからね。それではTwitterでつぶやけない分、noteでつぶやくとします。
現実と理想
僕は現実に集中しすぎてしまうきらいがあるのです。といっても、今使ったこの「現実」という言葉は「社会的要請に応える義務を負うこと」を指しているのではなく、むしろその逆とも言える「根源的に虚無である現実世界を、諦念混じりに甘んじて受け入れること」みたいな意味です。
その「現実」と向き合うことは、しばしば非生産的な価値観を生み出します。絶望的な堕落の素、厭世的な生き方、刹那主義が発動するときもあります。僕が一時期ショーペンハウエルに傾倒していた頃、僕はまさにその真っ只中にいました。世界や人間を嫌悪して、孤独な精神的安定のみを追求していました。
しかし、精神の安定や一歩下がった人生の大局観が得られても、面白いことが急激に減少していきました。何故でしょう?蓋し、現実と直面し続けることを己に強制すれば、面白いことも、面白くなくなってしまうのです。面白いと思うことを、現実が否定してくるのです。心から楽しむ術を奪われるのです。
そんな折、アランの『幸福論』を読んだことで、なんとか地獄から救い出されました。現実に嫌気が指している人で、かつその自分自身の態度に懐疑的になっている人にはオススメの本です。題名からしてアレですが、岩波文庫のを買うのがベストです。こういった思想書全般に言えることですが、間違っても(翻訳を除いて)二次的な本は買わないのが望ましいです。例えば一部をかいつまんでまとめて紹介したり、粗末な著者の見解が勝手に挿入される低俗な本とかですね。とりあえず、岩波文庫のを買えば問題ないです。光文社の古典新訳文庫もいいですけどね。あと講談社学術文庫か。ちくま文庫もいい。
話が脱線しました。つまり私が言いたいことは、「現実」だけを見るのも間違いで、「理想」だけを見るのも間違いだということです。
急に「理想」とか出してくるな。という話なんですが、「理想」というのは、「現実と適合しない、人間社会的な、あるいは個人的な目標等」とでもいいましょうか。
「現実」というものは本質的に虚無だと私は考えていますが、実際に生きていて、欲望でも、想像でも、期待でも、約束でも、多分誰でも観念的にありますよね。そういうものがどれも「理想」なのだとここでは考えます。
「現実」だけに着目していると、自分の生すら否定することになります。どう生きても意味がないからです。死んだほうがマシ。でも死ぬのは本能的に怖いから生きている。といった具合になります。多分僕のnoteを読む人間なら、説明はこれ以上不要かなと思いますが、どうでしょう?
「理想」だけに着目していると、何も知り得ぬまま身を滅ぼします。危険を危険として察知する能力を手に入れられず、突如として顕現した脅威になす術もなく斃れます。このタイプの人間は、人類の多くを占めています。基本的に環境に支配されていて、自らの所有権は放棄しています。というか、権利を積極的に移譲しています。常に相対的価値に目を回して競争して、毎日を消費しています。勝手に敵を生み出しては、絶えず侵略の危機に不安を感じています。彼らの価値は競争と消費に尽きますが、これがまた資本主義社会とは相性がよいのです。人類発展という料理のために、皿のような役割を担っています。もっとも、「現実」とにらめっこしてる連中よりは、かなり気楽に生きられるとは思います。死の直前の恐怖は相当のものになりそうですが。
「理想」というのは、「現実」からすれば、赤子の手をひねるよりも簡単に崩壊する脆弱なものです。私は幾度となく自分の中で「理想」を「現実」と照らし合わせることで破壊しようと試みました。案の定どれも容易に崩れ落ちていくわけですが、そこでようやく「現実」ばかりに囲まれた時に、絶望したわけです。
いやいや、何のために生きてるんだこりゃと。死ねばいいじゃんもうと。でも怖いから死にたくはないやと。え、なにこれ!?全然面白くないどころか、何してもつまんないんじゃないか!と。でもこれ以外に「現実」的なことなんてないだろう!どうすればいいんだ!と。
数ヶ月この絶望の中で過ごしていた時に、アランに「楽しく過ごそうぜ」と言われて、「ああ、生きることはやめられないし、それなら楽しく生きた方が楽しいに決まっているじゃないか」と気付きました。至極当然のことなんですが、「現実」を信奉する僕が理解するには難しいことだったのです。
この楽しく生きることに必要なのが「理想」なのです。はっきり言って、「現実」からすれば「理想」なんて悉く嘘です。夢も希望も大計画も、全部全部、本性的に欺瞞です。それでも、それは楽しく生きるために必要不可欠なのです。
実際、僕が「現実」に苛まれていたときにも、「理想」は確かに存在していました。だって、いつだって、野猿二郎は美味しいんですから。本当の本当に「現実」とだけ向き合えば、無感情にすぐさま首を掻っ切るでしょう。そうじゃなければ確実に「理想」はあります。
かのショーペンハウエルも、食後にフルートを演奏していたと言います。厭世主義の象徴的存在な彼にも、楽しみがあったのです。これは即ち「理想」に他なりません。楽しく生きるために「理想」は欠かせません。
「や、僕はちゃんと真理を追究しているから。君の言う「現実」を理解しているし、「理想」なんてバカが追うものでしょ。心静かに孤独に暮らしている方がいいよ」というそこのあなた!あなたが楽しんでいるそのSNS、ゲーム、漫画、アニメ、小説、ドラマ、映画、勉強、運動、エトセトラエトセトラ!それは何だ!人間が生きるために「理想」が必要なことを認めて、さっさと人生を楽しめ!そして一度でも「現実」を直視したその目は正しい!その視点はどうか死ぬまで忘れずに!あとは自分に相応しい「理想」を見つけて楽しんで死ね!
前にどっかで書いたけど、私的にはその「理想」は自分の幸福のためになって、かつ他人の幸福のためになるものだったり、あるいはその二つを交互に行えるようなものが望ましいと思っています。人間は社会的にしか生きられないですからね。そこは生物的限界として、どうか諦めてください。
もっとも、「理想」に主導権を握らせるのは愚の骨頂だと私は思います。前述した通り、「理想」はいつでも視界を曇らせます。飽くまで「現実」という地歩を確保した上で、少し離れた所にある「理想」を大切に愛でるような、そんな付き合い方が理想的だと私は思います。この方法ならば人間生活に必須の社会との交流も現実的に行うこともできます。
Twitter欲を昇華させたnoteなので、読みにくく論理的欠陥があるとは思いますが、これは私が生きる上で核となっている思想なので、私を理解するときの一助になるnoteです。え?お前なんかどうでもいい?そんな…………。
たとえこの世界が、宇宙が、太陽系が、地球が、国が、文明が、人類が滅びるとしても、今この一瞬に私たちがいるのは紛れもない真実です。ここに来たなら、今いるなら、どうせいつか去るなら、楽しみましょう。旅行先に来て、ただ目的もなく部屋に引きこもって、暗澹たる心持ちで家に帰る人間がどこにいますか?しかも、貴方たちの殆どの旅行先は、恵まれているのではないですか?これまでの歴史と比較すれば瞭然ですね。
さあ、今回はもう終わりです。あとは毎日を大切に、「理想」を見つけて、「現実」と妥協して、楽しむだけです。え?私の「理想」ですか?それはもちろん、茅野愛衣です。
ー終ー