哲学と懐妊と永遠の読書
哲学とは知識と友情を結ぶことである。Philosophyという言葉はギリシア語が語源であり、フィロスが友愛でソフィアが知識であり、この言葉が合わさったものであるからだ。では、友愛とは一体何だろうか。これを知るにはやはり「愛」と比較するのが良かろう。
まず愛から考えてみよう。愛、それを思い浮かべるだけで、何か情熱的な感覚に襲われる。やはり、友情よりも愛の方が大きな存在だと感じる。愛は何千年にも渡って芝居や詩、小説などで多くの人に取り上げられている、故に情熱さがある。なんとも偉大さを感じてしまう。共に愛し合うことで、熱狂的や一つの物語が生まれる。そこに多くの人が共感し個々の思いを馳せるのであろう。
しかしである。考えてみよう。一度立ち止まって。友情を置いてきぼりにするのはいけない。私は友情の方が、愛よりも疑わしくなく、確かなものがある気がする。では愛と友情の大きな違いとはなんであろうか。
それは考えるに友情には「相互性」があることだ。要するに、自分に友情を抱いてくれない相手に友情を持つことができない、ということである。友情とは共有されない限り存在しないもの、ということだ。一方、愛は共有、相互性がなければ不幸によって育まれるかに思われる。だが、この隙間にこそ悲劇、小説の物語が生まれる可能性が見える大切な場所なのは確かである。話を戻そう。ある詩人は「私は愛しているし、愛されてもいる、相手が同じ人ならば幸福なのだが」と書いている。つまりはそういうことだ。相思相愛でない人は嘆くのだ。そして理解する。自分が愛する人と自分を愛してくれる人が同じになることは滅多にないのだ、と。
もう一つ重大な違いが愛と友情の間にはある。それは敬意なき友情は存在しないことである。もしあなたの友人が卑劣だと思われる行為をしたのなら、彼はもう友人とは言いにくいだろう。もしくはその関係が危うい状態になる。そして避けたくなる。そうなのだ、友情とは軽蔑によって砕かれるものなのである。共に歩むことも出来ようが真の軽蔑に出会えばいずれ壊れる可能性が高いといえよう。
しかし、狂おしい熱狂的な愛ときたら愛する相手の愚かさや卑劣さ、下らなさ、本来なら醜いといえる点にも無関心でいるばかりか、逆にそれが、幼気で愛おしく、愛すべき要素に変わるポテンシャルを秘めている。盲目的にさせる眩暈がそこにはある。愛に酔う者はこうなるのだ。狂おしき情熱的な愛とは大食らいでそれらの多くの愚劣さを食いて糧とする。そうだ、愛とは時に相手の糞まで食べてしまうのである。
つまり。哲学をする一つの大切な心掛けとして、全ての知識を博愛するのでなく、憎むべき知識と尊敬するべき知識を判断することでもある。貪欲に知を貪る者はいずれ知への憎しみ、つまりMisologieを生むことになる。やはり識別する力が哲学には求められる。これが知識と友達になるということなのだ。それは、何かまだ知り得ぬ創造物を生む喜びへと繋がるのである。フランスの哲学者ジル・ドゥルーズは述べる。「哲学は概念を創造することである。」と。知と友情を結び、礼儀正しく戦う過程で、ドゥルーズの言うことが達成できるのだ。そもそも、概念という言葉は語源をたどれば「孕む」という意味になる。孕むということはそこから新たな子、新たな人生が誕生するのである。ニーチェは妊娠に関して称賛している。これが人間の出来る最大の美しき創造であり、歓びなのだ。そう歓びである!快楽とは違う。歓びである!
歓びとは創造行為の情緒的な面に他ならない。それ以外はことごとく快楽なのだ。歓びは創造を彩るものであるとすれば、快楽は消費を伴うもので、つまりは破壊の一つの姿なのだ。例えば、ケーキの製法を作った人は歓びを感じるが、食べる人は何も最後にはなくなる。快楽がこれである。
だが、懐妊には歓びだけでなく、快楽もあるのは確かである。しかし、この快楽は破壊のままでは終わらない。そこには一つの美しき命を産み出すということで創造に変わる!!破壊から創造に!!何なんだ!この神秘的な行いは!!これが歓びである。それもその歓びは、美しさを纏い他に勝ることはない豊かさがある。むろん、概念を創造することも同様であると考えて良いはずだ。そこにも歓びがあり人生があり世界を開拓する可能性を含む言葉がある。そもそもconceptionという言葉には概念と妊娠という意味がある、というのは既に述べた。
さてではどうすれば哲学をする過程でこの歓びを獲得できるか。それは正に「読書」をすることである。
読書とは本を読み、そしてそこから文章を、言葉を考える過程である。本に書いてある一節を信じ、疑い、信じ、疑い、また信じる。そして書く。それは灰色の孤独な戦いである。自分が狂っているのか相手が狂っているのか分からなくなって狂うことである。その中で、何か朧気に、灰色の孤独な世界から一筋の光が見えてくることがある。それが真理である。その真理が懐妊のきっかけとなるのだ。だがここで問題がある。そもそも、真理の語源はギリシア語でアレーテイア、つまり「覆われていないもの」という意味になる。ならばこういうことになる。要は永遠なのだ。真理とは覆われていない、ならば辿り着く前には覆われている状態であり、それを捲ると真理があり、しかし真理とは覆われていないものであるから辿り着くときには覆われている状態でなくてはならない、ならばそれを捲ると……の繰り返しなのだ。正しく、永遠の行為なのである。決して終わらない。そして懐妊の意味から読書とは生そのものである。ということになる。
もし真理という本があるとすれば、その本のページを捲れども捲れども決して終わりがない本であろう。そしてやがて永遠の所作故に目が使い物にならなくなるときが来るかもしれない。永遠という光ゆえに盲目になる時がやがてきた。しかし、本当の読書とはここからであろう!!そこにはまだ読めるものがきっと、いや必ずあるのだ!ここからもがき、どうにか読もうと、そして書こうとすることが本当の、そしてなりよりも偉大な懐妊になるのだ。ムハンマドを見よ!彼は文盲だったではないか!!耳をすませば言葉の轟きが聴こえるはずである。そして例え手足をもがれ五感を全て失ったとしても諦めることは許されん。その存在そのものこそが言葉を発しているからだ。それも希少な輝かしい言葉を人に与える。
さぁここからだ。読み、そして筆を取りて書こう。言葉を奏でよう。未来へ繋げるために。あなたの懐妊はいずれ天才を産み、いつか悪が蔓延った世界に平和をもたらす可能性だってある。ルターを見よ!充分に文学だけで革命は可能ではなかったか!暴力は不要であった。
さぁ読もう。偉大なる書物を。そして書き共に賭けよう。平和のために。その旅路は安堵する懐かしき故郷も、遠景も、最終地点もない辛いものになる。ただ空谷の跫音はある。安心せよ。
今ここに思考の一歩を。そこから二歩三歩四歩と進みて舞い、思惟に誘う夜へ向かおう。血の流れる音、神経が脈打つ音、心臓の鼓動を聴け!その音は断じて死へ前進ではなく、未来を切り開く生そのものの言葉なのだ。
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