3月2日
詠花吟月
ある写真家の方が
病の床にてこの言葉を口にした。
私も好きで書き残していた禅語。
肉筆は上手く作品にできなかったけれど
こうして画像で残せる現代の便利さたるや。
“ただ自然のままに感じたままに詩を読む”
それまでも、彼は撮らずにはいられないシーンを
想いのままに撮っていたのだろうけれど
それが出来にくくなってしまった状況にて
俗世から離れた世界の中にいるかのように
素にふれるような
写真を残した最後。
生きるシーン毎に
みるもの
感じるものが変化していく。
それはご多忙にもれず私もそうで
日々移り変わっていく。
変わらないのはおそらく
好き、という気持ちだけ。
それすらも
変わるときがくるかもしれない。
だけれど
生きることは大いなる遊び
なにがどうなってももはや自由
遊びだなんて、ふざけていると
思われるかもしれないけれど、
生きることはなかなか大変なことと
思うことがあったからこそ
どう感じるもなにもかもが本来自由で
遊ぶかのように生きればいい
と、そう思うようになったのです。
そして、どんな“遊び”を選ぶかは自分次第。
なにをしてもしなくてもいい
よい時代になってしまいました。
彼が生きた時代、その短い時間の中では
そんなことを選べなかったかもしれない。
だからこそ
彼が夢中になった写真
撮らずにはいられなかったシーンには
時を経ても尚伝わる力強さを感じて
“写真”の凄さを思ったでした。
(当時裕福だったから、写真という術を得られたら幸運な方だったのでしょうけれど。)
あの当時の、街の手書き看板
様々な手書きの活字
なんだか
時の流れが違って
良かったな。
効率は確実に今のほうがいい世の中なのに
なんだか手薄...
あの当時の様々な手仕事からものすごい
人の活気を感じる気がしたのでした。
#土門拳をみにいかなくちゃ