ギフテッドへの教育体制に関するニュースを聞いて(ぜ~んぶ感想、notエビデンス)
とても大切なことだなと感じました。個人の幸せと社会の豊かさの2柱で考える時、ギフテッドがその才能を十分に発揮できることは自己肯定感や自己表現の上で大変良いと思いますし、社会がその才能をあるべき場所あるべき形で過不足なく活かせるのなら、そこに生きるその他大勢にとっても利益になるでしょうから。
しかし期待する反面、ギフテッドたちが人として成長するのに必要な良き友人(友人が絶対ではないが、成長に大いに有用な存在)を得られるかが難しいと感じます。同世代の大多数とはその頭の出来の差で分かり合えず、ギフテッド同士ですら都合良く相性のいい人と出会えるか不確実で……。では大人扱いして過ごさせるのか?無理でしょう。凡人の大人ですら、経験という飛び級出来ない訓練の果てに、情緒や共感性を体得してきている。人格が良好な大人の中にいたとしても、情緒や共感性を理解も納得も及ばないギフテッドの子供には疎外感や孤独、劣等感が生まれ、あるいは肥大した自尊心を持て余し子供らしい傲慢から孤立するかもしれない。
私にはどうにも、文科省の机上の空論が如き制度が機能したとして、そこで情緒や共感性が正しく身に付くとは楽観視できません。
どれほどIQが高くとも、その情緒が歪に成長してしまえば2柱の成立は絵に描いた餅でしょう。情緒は時間をかけて経験から育つ側面もおおいにあります。共感性もまた然り。ギフテッドでない汎用な天才にも多くの場合、情緒や共感性を育む時間はあったはずです。IQが高いからといって、情緒までも成長が早いとは限らない。情緒の成長が早かったとして、他者とのコミュニケーションの中で、良き人間性を維持できるかもまた別の問題です。これらの能力の醸成には学校やその他コミュニティで訓練が必要だからです。
世の中にはたくさんいるでしょう?思考力はあっても感情に振り回されるろくでもない人間が。特別な能力が彼ら彼女らの全てを満足させる訳では決してないのです。
もちろん彼らの才能を台無しにする下らない(非合理的な)常識や共感性は唾棄すればよいです。クソみたいな足の引っ張り合いは止めるべきです。彼らを活用するにあたり社会全体でクソみたいな慣習を見直せばいいです。ギフテッドでなくとも社会に思うとこがあるんですから。Twitterではよくそういうおかしいよねというお気持ちツイートがバズってますからね。
さて、教育制度が機能したとして、人間性も成長したとして、それでも期待しすぎはよくないです。文献は拾ってきてませんが、アメリカで昔にギフテッドを専用の教育しても、大人になったら結局凡庸な結果しか出なかったという記事をどこかで見ました(間違ってたら指摘ください!嘘つきはよくないので!)。
脳をコンピュータと捉える時、スパコンを載せてたところで、それをどう使うか、あとは想像力とか、それって「人間」の部分が決めることだと思います。ギフテッドとは特殊な高い能力をもって生まれた人間ですが、それは前提条件であって、能力をどう現実に反映するかは別の次元の話でしょう。そして社会が無責任に期待するのもこの反映の次元です。我々凡人は常に無責任に才ある人に期待していると自覚して、期待で潰してしまわないように注意が必要だと思います。
ここまで凡人の私の観点で好き勝手考え、長々と意見を述べました。きっとこう思う人もいるでしょう。凡人の尺度で語り、枠を作ることこそが間違っているんじゃないかと。
一理あります。おおいに。しかし忘れてはならないのは、人は一人では生きていけないこと。社会に生きる以上どの国であれ、他者の都合、あるいは不特定多数の思惑の大きなうねり(そこにもはや意思は見えないもの)と向き合う必要が出てきます。ギフテッドは、ギフテッドのみで成った社会では生きるに能わず。現実的に、ギフテッドには情緒や共感性を有する必要がある。納得できなくとも、理解し、反射する必要がある。
なにより私はギフテッドを人間扱いしなければならないと強く思います。人間扱いというのは、時に失敗をし、感情と理性の均衡を崩し、長所短所個性があり、面白くて面倒くせえ、そんな不完全で希望に満ちた存在であるということ。私は絶対にギフテッドを同じ人間だと思い続けてやります。それが凡人にできる、身勝手な思いやりであり、差別への抵抗となると確信しているから。
まあ早い話、一部が秀でた同じ人間って考えるのが一番良いんじゃないかと思いますね。
人的資源を生ゴミに変えるのは非生産的じゃけえ文科省の決定権を持つ人らには頑張ってほしいですね。形だけにならないように。