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書くことと奏でることと

前回から、気づけば1ヶ月以上が経過。
あの頃は、薬が少し減って、低空飛行でヨロヨロしていた頃だった様子。

その後、治療の方はどうなったかというと、結局薬を少し増やして、そこで落ち着いた。
減量前からすると、1mg減したのみ。
ちょっと残念だけど、これが今のわたしの維持量なのかな、と、しょんぼりしつつも納得しているところ。

で、ご無沙汰していた1ヶ月の間に何をしていたかというと、まぁ、色々としながら生きていた。
仕事は相変わらずのんびりペースだけれど、実は去年のはじめにうっかり立ち上げてしまったボランティア団体があって、最近はそれ関係の仕事(?)で小忙しくしていた。

そしてそれ以外の時間の多くは、小説の直しをしていた。
これは、薬が減ってから全然手がつかずにいたこと。
わたしにとって、小説を書くことは読むことよりも負荷が少ない作業。
なので、小説の直しすらできない状態というのは当然、読むことは愚か書くことも難しい、結構厳しい状態だった。
と、元気になってみてから気づいた。
で、そこから、薬を1mg増やしただけで回復した。
我ながらなんとも単純。
でもそれだけで、あぁ、久しぶりにちゃんと息をしたなぁ、と言う気分になった。

だが一方で、こうした息苦しさを経験すると思う。
たとえばまた、何かの理由で執筆に手がつかなくなったり、その時間がなくなったりしたら、わたしはどうやって息をしていったらいいのかな、と。
書くことは読むことよりも気持ちにやさしいけれど、書くためにはそれなりの“種子”が自分の中に必要で、それが尽きることもあるだろう。
“種子”を芽吹かせるための時間や心のゆとりを持てないこともあるだろう。
そうしたとき、どうしたらいいのか。
考えて、忘れていた当たり前に思い当たった。

これまでのわたしは、文字を通して吐き出せないものを呼吸するために、音楽を奏でていたんだ。

元々、幼い頃からバイオリンをやっていた。
普段は何かをねだるということのないわたしが、一年くらいずっと「やりたい」と言い続けて、根負けして習わせてもらったバイオリン。
わたしにとっては、自分の体の延長のような存在だった。
言葉にならない気持ちも、音になら乗せられるような気がした。
だから、演奏を聴かれると自分の内面が丸裸にされるような気がして、人前で弾くのは大嫌いだった。自分のために、ただ自分のためだけに弾いていた。

けれどコロナ禍になって、スタジオに行くことが難しくなってから、バイオリンを弾く場所を得ることが難しくなった。
それで小説を書くようになった、という部分も、あるのだと思う。
でも、その小説すら書けないときも、また来るかもしれない。

だから、というわけでもないけれど。いや、あるのかな。
引っ越したら、電子ピアノを買おうかな、と、何となく思っている。
うんと安い、中古でいい。
ヘッドホンをして、楽譜を前にして。
新しいものを何も作り出せなくてもいい。
自分のために、ただ、音を奏でる時間を持てたらいい。

そういえばヘンリー・ミラーが、こんなことを言っていた。

“When you can't create you can work.“
新しいものを生み出せないときでも、ただ手を動かすことはできる

Henry Miller

新しい物語を描けなくても、独創的な音楽を奏でられなくても、楽譜と向き合い、音符をなぞることはできる。
手を、体を動かし続けることはできる。
そしてそれは多分わたしを、自分の思考に沈み込むことから自由にしてくれる。

つくづく、言葉と音楽に助けられる人生だ。
書き続けよう。
それが無理なら、奏でよう。
楽譜を見ているときのわたしはきっと、足元ではなく、前を見続けることができるから。

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