苦手な人の顔ばかりを思い出していた
友人に会いに行くようになって。
もとい、精神科外来に通いはじめて、気づいたことがある。
苦手な人の顔を、思い出さなくなった。
正確にいえば、それはゼロになったわけではない。
けれど、メールのやりとりをしたり、研究についてふと思い巡らせた瞬間に立ち現れる表情や声は、さほど長続きすることなく、意識の流れとともに過ぎ去ってくれる。
翻ってこの 1 年ほどを思い返すと、過去の傷をえぐるその人の非難や怒声は、気づけばわたしの時間のすべてに、引き剥がし難くまとわりついていた。
研究を進める上で、指導を仰ぐべき相手だからというのもあるだろう。
人格を否定するような、嫌な言葉を浴びさられたせいもあるだろう。
時に味合わされる理不尽に、自分の母親が重なって感じられたせいもあるだろう。
受け取ってしまった否定を、うまく受け流すこともできず、必要以上のダメージを食らってしまったのは、わたしの側の理由も多分にある。
フラッシュバックの原因となっている子供時代の傷は、その人にも、いまわたしが置かれている環境にも関わりのないことだ。
けれど考えてみると、痛みを打ち消せずにいたのは、それを上書きできるような、より緊密で頻繁な付き合いを、日常の中に欠いていたせいもあるのかもしれない、と気づいた。
仕事も、研究も一時の休養をいただいてから。
それまで心を苛んでいたすべてから、物理的に距離を置くことができた。
それによって、フラッシュバックを引き起こす刺激も減った。
そしてそれ以上に、友人である(いまは友人関係はお休み中だけど)主治医と話す時間が増えた。
去年までのわたしは、職責に基づく行動制限の中、友人と会うことも、好きだったコンサートや映画や美術館やに赴くことも、できずにいた。
夏も冬も帰省はせず、自宅に一人きりで過ごしていた。
患者さんの診察や、研究についての相談以外は、会話もマスク越しに距離を置いて、必要最低限のごく短時間のもののみ。
ふとすれ違った同僚と軽口を交わすことはあっても、じっくり会話をできるような空気は、そこにはなかった。
だから気づけば、一番直接に顔を合わせていて、一番メールのやりとりをしているのが、古傷に爪を立てるその人になっていた。
ひとりで過ごす時間に訪れる空白の中、一番鮮明に思い出す顔と声が、わたしを一番傷つける人のものになっていた。
いまは、その姿も小さくなった。
代わりに思い浮かぶのは、友人のことだ。
わたしの主治医になってくれた、彼だけではない。
不思議なことに、苦しみが遠ざかってから、ごく最近にやりとりをした色々な友人のことが、自然と心の中に浮かび上がるようになった。
まるで、心を覆い尽くしていた分厚い雲が流れ去って、陽が差し込むように。
そうしてあたためられた大地に引き寄せられてか、明るい報せや誘いも、何だか増えたように思う。
彼と交わした指切りのまじないが。
守られているという安心感が。
心をゆるませて、あたたかな風を入りやすくしてくれたのかもしれない。
いま、もしもあなたが、職場で、学校で、それ以外のどこかで苦しんでいるなら、一度考えてみてほしい。
「わたしの頭は、自分を傷つけるもので支配されていないだろうか」、と。
そして、もしもその答えが YES なら、それを上書きできるような別の何かを、思い浮かべてみてほしい。
友人でもいい。好きな有名人でもいい。人に限らず、音楽や絵画や、なんでもいい。
自分の心を埋め尽くせるもの。
それを見つけたら、なんとかして時間をつくって、思いっきり没入してみてほしい。
心を、大好きなもので満たして。嫌なものを頭から閉め出して。
自由を、取り戻すんだ。
これは半分、過去と未来の自分に言っている。
心に描くのは、やさしいものの方がいい。
苦手な怒り顔よりも、大切な人の笑顔を、わたしはいつでも思い浮かべていたい。
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