学んだことを復習する会「哲学入門」
え、一昨日書いた小説っぽい何かの続きは?
てへ。投げ出しグセがひどい猫暮にそれを聞くとはグモンです!
…いずれね。ちゃんと書かないとね…!
さて、日夜いろんな本を平行して読んでいる猫暮。
積読と読了本と、そのはざまの咀嚼中の本が部屋中に入り混じっています。
猫暮、普段は真面目な話とか全然しないタイプなんですが、たまに熱が入って考えをバーッと発散したりすると、よく「哲学者っぽいよね」なんて言われます。しかし、肝心の私は哲学なんて1mmも学んでいません。通っていた学校のカリキュラムもほぼノータッチ。
でも、精神科医ながらマルチな活動をされている名越康文先生の著書や、ゲンロンの創設者にして令和を代表する哲学者、東浩紀さんの著書などは大好きで、読み物として哲学に触れる機会はありました。
こまごまとした知識の集積からたまたま発露したものが「哲学者っぽい」っって感じられるらしいのだけれど、せっかくの機会だからゼロベースから学び始めてみても面白いんじゃないだろうか!なんて思い至ったのがごくごく最近の話。
ということで、かねてから読んでいた哲学書、千葉雅也さん著書の「現代哲学入門」の途中経過を文章でまとめていこうかなと思います。芥川賞くらいの短めの小説とかは読み切っちゃうことが多い猫暮ですが、さすがにこちらのタイプの書籍は合間で整理しないと頭がバクハツしてしまいます…!
千葉雅也さんの書籍といえば以前、「動きすぎてはいけない」をノリと勢いで購入しほとんど挫折した過去があります。と、いうのも今回「現代思想入門」での解説がある通り、哲学の世界って入口が見つけづらいのです。大抵の哲学本は、引用に次ぐ引用に次ぐ引用で構成されています。
「嫌われる勇気」で一躍知名度を爆発させたアルフレッド・アドラーや、カウンセリングの元祖と呼ばれるカール・ロジャーズの入門本など、これまで哲学に触れつつも読みやすい書籍はいくつかありました。提唱した概念が分かりやすく整理されていて、とっつきやすさからベストセラーになったり教材として活用されたりしています。(やけに哲学と精神科医をセットで並べたがるのは、著者内で触れている『ドゥルーズ/ガタリ』リスペクトです)
一方で、一歩踏み入った哲学書は一筋縄ではいかないのです。整然と彼らの歴史をまとめているわけではありません。哲学書は「あたりまえ」が途方もなく必要な学問なのです。たくさんの差異を比較するなかで新たな思想を導き出すことに重きを置きます。すると、まずは比較対象が必要となってきますよね。その豊富な比較対象を知識として、あるいは経験として持ち合わせていることが第一歩なのです。(厳密には成功体験も失敗体験も枷になってしまう可能性があるので考え物ですが…)
もちろん、15世紀のデカルトのような「我思うゆえに我あり」といった命題に向き合うのも、哲学の一つです。少なくともゼロベースの猫暮が抱くシンプルな哲学のイメージと近い概念ですが、1枚岩でないのがこの界隈。100枚、200枚と数多くの岩盤を持つことが大事なのでしょう。持てば持つだけ、差異が明確になり、発見が期待できる。さらに岩のひとつひとつにも最新の注意を払う必要があります。岩の主成分とか、大きさとか、感触とか、内包する鉱石とか。解釈を広げるためにも明らかにできる実像は大いに越したことはない。文脈を分析して、咀嚼しておく必要があります。
実際はどんなに完璧にやったとしても生まれる差異の種類は無限大なので、結局学びなおすことになると思います。というか猫暮の生活がまさにそれです。読んだはずの本を何度もめくり直したり、ゲームでも過去の攻略情報を何度も反復したり、映画やアニメだって何度も見直したりします。なんでこの作品はこんなに面白いんだろう、って分析を無意識にやっています。
ただ、繰り返し続けることでだんだんと「構造」に見えてくる。この辺は岡田斗司夫さんが解説していたりしたんですが、「作品」は分割されていくのです。
「カット割り」「撮影手法」「役者」「予算」「表現」「音声・音楽」「オマージュ」「脚本」といったひとつひとつを抽出して他の作品と比較していく。映画に不慣れなゼロベースの方なら、純粋に映像を楽しむことができるかもしれません。しかし、猫暮は少なくとも構造に注目してしまうのです。
一つ例えましょう。富士山を映像にまとめた作品がたくさんあったとします。最初のほうは富士山の美しさに目を奪われます。ですがそのうち、どんなカメラを使ってるのかとか、編集やフィルターはどうとか、これはどのスポットから撮影した画角なのかとか、空模様はどうだろうとか、数を見ていくと着眼点が具体化されていきます。被写体だけでなく、点在する要素にだんだんと目が向いていくのです。
猫暮、『ザ・スーパーマリオ ムービー』とかも劇場に見にいったんですが、友人とカフェで語った感想会は、もはや「現代にスーパーマリオから適応しにいった」とか「はじめて触れる映画がこれになる令和ジュニア世代はたいへん。目が肥えちゃうよね」とかそんな感じでした。
…もちろん、モブのおじさんがマリオのガチ声優だったり、ゲームキューブの起動音が携帯の着信音だったりルイージマンションリスペクトだったり、スタッフの用意した小ネタもしっかりキャッチしてキャッキャッしてましたよ!ゲーム好きだからね!
と、脱線はここまでとして!
過去と現代を反復し続ける中で差異を再発見していく。みつけた差異を元に仮設を立てて、自己と社会の在り方を思考したり、はたまた自分のレゾンデートルを考えたり、作品がなぜ自分に刺さるのかを思案したり。そういった思想を表層化していく作業を、哲学と呼ぶのかもしれません。
実のところ、猫暮はひとつ勘違いしていたことがありました。
自身の内面に潜り続けることだけが哲学ではないということです。内面の探求は自身を同一化していくことです。これをアイデンティティなんて呼んだりしますが、分かりやすくいえば「自分の考え方や生き方を強化」していくことに相当するようです。よく、漫画やゲームなんかでアイデンティティを確立していけ、なんてセリフもあります。どうにも、アイデンティティを持つことは「しっかり者」とされていて、自分を持たないふにゃふにゃ人間は「だらしない」と認知されている。
でも反面、アイデンティティの確立はバイアスの強化につながります。こうなってくると変な話に。
多様性を認める為には、バイアスを解きほぐしていく必要があります。最近のLGBTQ運動などを例にとれば、ヘテロや同性愛者でも一つの個性として受け入れることを社会から要請されていますよね。
そして、私たちも常識をアップデートして当然のものとして受け入れている。私たちがよく触れるメディアでも同性愛文化の露出は多くなり、あたりまえじゃなかった日常をあたりまえと認識できるようになるまで矯正されました。なんなら猫暮のように同性愛を実践してみるタイプの人もいるかもしれません。
こちらの記事では、私が人生ではじめて同性とお付き合いしたエピソードを語っています。よければぜひぜひ。
こういった経験を通して、あなたもアイデンティティを確立してるんじゃないの?と疑問の声が飛んできそうですが、ちょっと違います。
確立ではなく、あくまで途中経過だからです。
一生変化し続けるのが人間の性質だと思っています。変化を余儀なくされる環境の中でも変わらないモノと変わるモノがあり、その差異を見つめていくことが人間の命題なのではないかなぁと。
命題っていうくらいですから、命を賭して見つけていくわけです。寿命までに正解が見つかる保証もないまま、ただただ「差異を見つけていく作業」をやっているわけですね。この場合は、過去の自分の「私は異性しか愛せない」ってバイアスと比べて差異を見つけ出せたことになりますね。他の人と、じゃないです。自分の過去と比べてです。
猫暮が言うところの「バイアスの強化」っていうのは、差異を見つけようとしなくなることです。もしくは、見つける機会を失うこと。「自分はこういう人間だ」「世間はこういうものだ」って色眼鏡を付けたままでいることが何より勿体ない。
でも眼鏡ってレンズは曇るし度数は合わなくなるし、顔の形が変わっていくにつれてフレームもフィットしなくなっていきます。定期的なメンテナンスが必要ですし、それに本当に眼鏡が必要かどうかも怪しい。今ならレーシック以外にも角膜に直接レンズを差し入れるICLなんかも選択肢として増えました。「俺はこの眼鏡をはずさない」と固執することで、差異は差異かどうかも分からないままに過ごすはめになります。目の前の裸眼の人間が、本当の意味で裸眼なのかも、疑えなくなる。でも、ピントがぼやけているのも、ひとつの幸せの形ではあるのも事実。だけど「ぼやけていること」が差異として認識できてしまっているのであれば、そのままではいられません。
もっとクッキリ世界が見通せるレンズ。
欲しくなるのが人の佐賀サガです。
こうして解説してみると、アップデートを繰り返していくことはアイデンティティの確立とは相対する考え方に思えてこないでしょうか。もちろん、自分を持つことも大事です。が、それ以上に両者のバランスを取ることで見えてくる差異を観測するのが面白い、と猫暮は思うのです。こういった対立構造を積極的に文脈から見つけ出し、ゆさぶりにかける。そこから零れ落ちてきたものに意味を見出すような作業を、私はずっと続けている気がします。
さて、いろいろ書いてきましたけれど、まだぜんぜん本書の内容に触れていませんね。でも、このまま一つの記事に詰め込んでしまっては私も読み手も疲れてしまいます。いったんここで区切って、次回から触れていこうと思います。
ありがとうございました!
――え、それって書かなくなるフラグでは?
てへっ。