
FF14は仕事です|哲学風読解
FF14をすることを、プライベートな趣味だとは思っていない。
仕事です。
仕事といっても、楽しくないわけじゃない。
仕事が、つらく、けわしく、我慢しがたいものであるという固定観念でとらえてはいけない。
楽しめる仕事もあれば、そうでないものもある。
楽しめないから=仕事のようなもの、と読解するのは短絡がすぎる。
そもそも仕事という言葉を分解すれば、事物に仕える、と書く。
FF14における事物とは、言い換えれば共同的な目標物を指す。
達成感という名の甘美に無遠慮に酔いしれる者もいれば、成長という根も葉もない幻想を糧に進む者もいる。手段として、求心力の優れたゲームという枠組みの中から、たまたまオンラインゲームというカテゴリーを選び、たまたまRPGというカテゴリーを選び、たまたまファイナルファンタジーというカテゴリーにいきついた、ある種の運命共同体に過ぎない。
自由意思を妄信するリバタリアンを自称し、その実は共同体幻想の中に織り込まれかき混ぜられているだけの存在であっても、自らをもって意思を定義したと信じこみ、利益的側面を胸裏で企む客体からただ要請させられているだけとも知らず、わずかな可処分時間の中でうそぶく。
こういった状態は、信仰を妄信するためのメカニズム、あるいは信仰の構造が占める構造的欠陥や矛盾にも似た文脈を感じる。
信仰の輪の中に生きるということは、自分が神に仕えることから絶対的に逃れられないことに等しい(仮に”仕神”と名付けてみる)。
逃れられない人と逃がさない神の束縛的な関係性間にて形成された不文律は、それ自体が自由とは反対の性質を持つ。仕事に置き換えてみれば、仕事はライフスタイルの継続のためにやむなく行われ、それが愉快か不快かといった一時的な感情のゆらぎすらも大義の前に無効化され、事物に仕えるという敬虔な姿勢のみが信仰、ないしは共同体の中でのみ許されてる。
不敬虔な信徒の存在はすなわち事物の達成を脅かすものであり、抗いがたい圧力によって辞任させたり、”道徳的”に排除するといった選択が意義を帯びる。この際、”道徳的”という観念は純粋な意義からまるっきり反転し、限定的な文脈の中でのみ存続する「空の器」となる。この空の器には、どんなものでも詰め込める。”非合理”であれ”暴力的”であれ”背徳的”であれ、器自体が決して拒否することはない。肝要なのは、そうして詰め込んだ観念がなんであれ、ほぼ絶対的な”善”になりうるということである。
仕えるというのは、いわばその善が遂行される側の立場にたったとしても、受諾し、仮託しなければならない、という苛烈な契約なのだ。事物の前に、人はヒエラルキーの最下層に陥れられたとしても、敬虔な信徒であり続けなければならない。あり続ける他、選択の余地がない。仕事は、生活を人質に取られ、仕神(すなわち信仰)は、存在そのものを人質に取られるのだ。
だからこそ、極限的な閉塞状態の中において人は自ら意味付けを行う。仕えることの神秘性を失わずしてもがく手段を、井の中の蛙が手足をばたつかせ石垣の縁になんとか這い上がろうとするみっともなさを晒しながら、ついには見つける。
「私はこの奉仕を、心から楽しんでいるんだ」という精神の信託を。
しかし、この時点で奇妙な関係が出来上がっている。神や事物から与えられる束縛や苦しみを、始めのうちこそ認めながら、奉仕という記号的な役割を再度自身の内に(気合を入れて)定義するために、余ったスペースの中で自由意思をきままに躍らせるが如きこの精神性の解放は、それ自体がまるで不敬虔な信徒の在り方そのものではないか。
私は、その再設定をした後の、もしくは初めから自由意思なるものの介入がある奉仕などというものは、うそっぱちだと思う。
俗っぽくいってしまえば、ゲームにおけるコンテンツを攻略したのち承認されるのは「敬虔なゲームの信徒」という内外を隔絶する境界線だけである。大半の場合、信徒が欺瞞じみた仮面を捨て去り、奉仕を辞めなければ前には進めていない。そうして逃走後も軽薄な信徒のレッテルを貼られてなお「私はこのゲームを愛している」という主張を頑なに辞めない節操のなさ。それら信仰の正体が、仕事でなくてなんだというのだろうか。
仕事も、信仰も、形而上的にいえば、とっくに内破されている。少なくとも私はそう感じる。しかし、そういった不敬虔な行為ですらも赦されるから、仕事は仕事たりえるし、信仰は信仰たりえるのだと思う。
であれば、仕事というほうがまだ気楽ではないだろうか。
うそぶくことで、精神は平穏を保ち、感情の途方もないうねりは息をひそめる。自身を騙すことで、信徒たちの悪意なき”善”から身を守り、苦痛や、その先に待ち受ける虚無やペニミズムから距離を置くことができる。
騙すというのは、すなわち外部的な意味を再定義し続けることだ。事物に意味があるのだと盛んに信じ、主体も客体も行方不明なまま大洋のはるか果てにいる神にむけてボトルメールを送るような、対象無き信仰なのだ。
はい。コワイネ。思想強い文章だね
最近、ウィドゲンシュタイン気になってます
こんなこと書いておいてだけど、猫暮、FF14めっちゃ楽しんでます
レイド超楽しい
次は4月からだってさ。楽しみ
ただ、心からすべてを預けて楽しんでるか、って聞かれたら、まったくそうじゃない
もしも、心から楽しんでるよ、って答える人がいたら、猫暮は上の文章みたいなことを思い描いてるよ、って感じ
楽になることは”悪”ではないけど、”真”ではない
そんな心のもやもやを表現してみた文章でしたまる!