百人一首に選ばれた人々 その46

 第八十六番歌 西行法師 『千載集』恋・九二六
「嘆けとて月やはものを思はするかこち顔なるわが涙かな」
 
 月を見て西行が涙をながしているわけではない。月にかこつけて別の理由で涙を流しているのだ。では、なぜ涙を
流すというのか。月は、というよりも、この世の全てのものは満ち欠け、盛衰、変遷を繰り返す。西行はその変遷を「涙かな」としている。月にかこつけて、西行が何かに涙しているのだ。
 
 貴族と武家が政治権力を奪い合う。あちらを立てればこちらが立たずと言うような混沌とした状況になっていることを涙しているのだ。西行は政治家でもなく、貴族あるいは武家の権力争いとはかけ離れたところにいる、僧侶という身分なのである。
 
 月は人間の手が届かない遙かに遠いところにある。西行にとっては、貴族と武家の権力闘争などは、月のようなものであり、西行が何か寄与できるというものではない。しかし、雲の上の国政の出来事は、そのまま庶民の問題である。国政の乱れは世の乱れにつながり、庶民の平穏な生活が破壊され、やがては人々の殺し合いが始まる。血が流れるのだ。そのことを西行は嘆いているのである。
 
 定家は、混迷する時代にあっても、また政争を嘆きながらも、自分の立場でできる最大の努力を惜しまなかった人として、西行を選んだのである。
 
 
 第八十七番歌 寂蓮法師 『新古今集』秋・四九一
「村雨の露もまだひぬ槇の葉に霧立ちのぼる秋の夕暮れ」
 
「にわか雨」というのは、大気が不安定な時に突然降り出す雨のことだ。つまり、青天の霹靂のような大事件が起きて、世の中が乱れた。大事件による混乱(霧)をなんとかしなければともがいているうちに、さらに大きな問題(霧)が再び立ち上ってきた。そのような大混迷の時代に入っていくのだ。
 
「保元の乱」、「平治の乱」と、大きな乱が起き、多くの人の血が流れた。貴族政治の大混乱が収束しないままに、再び霧が立ち上る。平氏が台頭し、武家の時代が来るのだ。そのような時代の流れを寂蓮は和歌に詠み込んだ。
  秋の夕暮れは寂寥感に溢れている。しかし、いくら寂寥感があっても、自然の営みは営々と続く。ならば、気力を振り絞って再度立ち上がるしかない。きっと、当たらし時代が来ると信じて。
 
 第九十五番歌 前大僧正慈円 『千載集』雑中・一一三七
「おほけなくうき世の民におほふかなわがたつ杣に墨染の袖」
 
 慈円は「保元の乱」の首謀者だった藤原忠通の息子である。慈円は親の七光りなどではなく、自分の努力だけで天台座主にまで出世した。親はその全盛期に権勢を振るったが、身分も所領も財産も全てを取り上げられて出家したような人物である。
 
 慈円は、「憂き世の民を我が墨染めの衣で覆いたい」と詠んだが、そこには貴族社会と武家社会の不協和音を早く終わらせたいという気持ちがあった。
 
 さて、「十七条憲法」第11条には「明かに功過を察して賞罸必ず當てよ……」とある。つまり、「明察効過」という考えが合った。功労も過ちも事前に察して、賞罰瀬よということである。あくまでも、争いが起きないように事前に手を打つということがいかに大切であるかが分かる。そして、これこそが為政者の役割である。
 
 猿丸太夫・喜撰法師・蝉丸の三人を除いて、ここに登場した法師達は保元の乱以降の乱世に生涯を送った人達だ。ただ、慈円は他の人とは身分が違う。関白九条兼実の弟であり、仏教界の最高位天台座主の座にも座った。血筋などの麺から他の人のように完全な遁世者になることはなかった。それに比べ道因、俊恵、西行、寂蓮は身分の制約を受けず、自由に我が道を歩めた。定家が前の三人に関して僧侶でありながらも恋の歌を選んだのは、「数寄」の道に徹底した彼らを羨んだためか。
 
 ところで、道因法師が遁世したのは八十歳を越えてからからだったという。俗人としては五位の藤原敦頼として生きていた。道因は吝嗇だったという逸話がある。賀茂祭の使になった際に、馬丁に装束を与える約束をすっぽかしたため、街頭で彼らに襲われ、身包み剥がれた。それで、「ハダカノ馬助」というあだ名が付いた。数寄心が過ぎて失笑を買った。「嗚呼の者」である。
 
 一方、俊恵法師は数寄者たちの衆望を集めた。面倒見がよかったのだ。
 

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