西行の足跡 その24
22「思ひおきし浅茅の露を分け入ればただはつかなる鈴虫の声」
西行上人集・雑・430
故人が思いをそこに残した三昧堂の庭は、浅茅が生い茂り、露もしとどであったが、分け入っても、ただかすかに鈴虫の声が聞こえるだけである。
徳大寺実能(さねよし)の家人でもあった西行は、徳大寺実能を偲んで上のような歌を詠んだ。
「亡き人の形見に立てし寺に入りて跡ありけりと見て帰りぬ」
西行上人集・雑・429
今は亡き徳大寺実能が形見として建立した寺に入ってみたが、すでに消失して、その跡が残っている。私は、それだけを見届けて帰るしかなかった。
高野山で修行をしていた西行にまつわる様々な歴史的遺跡もあるが、研究者でもない一介の庶民にはそのようなものには関心がない。ただ、西行は自分が仕えた徳大寺家のこともそれなりに大切に思っていたのだということだけは理解した。
23「山深み岩にしだたる水溜めんかつがつ落つる橡拾うほど」
山家集下・雑・1202
高野山は間が深いので、秋が深まるのも早い。凍ってしまう前に岩から滴り落ちる水をためておこう。早くも落ち始めた橡の実を冬の食料として拾ったりするこの時期の内に。
西行と寂然との間には深い親交があった。高野と大原の間でこの歌を含めて10首のやりとりがあった。西行の歌はすべて「山深み」が初句になっており、寂然の歌はすべて「大原の里」で終わっている。この歌は10首の中の5首目のうたである。寂然の歌の5首目は次の歌である。
「水の音は枕に落つるここちして寝覚めがちなる大原の里」
山家集下・雑・寂然・1212
大原の里はよく眠れないのです。旅寝同然の山家に暮らしているので、水の音がすぐ枕元に聞こえて、夜何度も目が覚めます。
寂然の7首目は次の歌である。
「山風に峯のささ栗はらはらと庭に落ち敷く大原の里」
山家集下・雑・寂然・1214
大原の里では山風が吹き下ろすと、尾根から笹栗がはらはらと音を立てて庭いっぱいに落ちます。
面白いのは、西行が橡の実を詠んでいるのに対して、寂然は栗の実を取り上げた。木の実は昔から大切な食料のひとつであるが、ドングリと呼ばれる仲間のうち、椎、カシ、ナラなどは、アク抜きは難しくないが、橡の実はアク抜きが面倒である。水にさらしただけでは不十分で、加熱処理しなければならない。
「紀の国の熊野の人はかしこくてこのみこのみに世をわたるかな」
(紀伊国名所図会・熊野編)
紀国の熊野の人は賢い。さすがに「木」の国の人だけのことはある。木の実の樫粉(かしこ)を好んで食って、ひとりひとりが本当に楽しそうに人生を送っている。
「このみこのみ」とは、「好み、好み」と「木の実、木の実」と掛けているのであろうから、木の実を好んで食べ、自分の好きなように生きている熊野の人は賢いと言っているのだろう。
この歌は西行が詠んだとされる。高野山で橡の実を食料としていた西行が、熊野でカシの実を食料とする文化と出会ったわけだ。
「宿の主やのべの煙となりにける柴たくことをこのみこのみて」
(松屋本768b)
以前宿を借りた家の主人は鳴くなって、野辺送りされて煙りになってしまったようだ。あの夜は一晩中私のために柴を炊き続けてくれて、あんなにも柴を焚くのが好きだった、まさかそのせいではあるまいに。
熊野の誇る備長炭はウバメガシが材料である。カシのアク抜き法である「水さらし法」は照葉樹林文化の中核的要素だともいう。熊野の文を異文化として再発見するのに、熊野にもなじんでいた西行という人物は最もふさわしかったのだろう。