百人一首に選ばれた人々 その29
第六四番歌 権中納言定頼 『千載集』冬・四一九
「朝ぼらけ宇治の川霧たえだえにあらはれわたる瀬々の網代木」
第六十番歌は小式部内侍が詠んだが、藤原定頼はその当時の彼氏だった。また、五十八番歌の大弐三位、次の六十五番の相模とも関係があったらしい。家柄、血統、容姿などに優れていたからこそ、素晴らしい女性たちとの関係があったのだろう。また、風雅の道を知っていなければ、このような華やかな女性たちとは縁がないだろう。
六十三番の道雅は「我(が)」に走り、六十四番の定頼は「雅(が)」に向かった。つまり、定頼は、己の分をわきまえていたのに対して、道雅は思い上がっていたのだろう。そこをきちんと見定めて、配置するというのはやはり藤原定家は途轍もない知識人だった。
以上の11名は、藤原氏の中にあっても権力者や高い官職に就けなかった人々達だ。つまり、挫折、屈辱、敗北を味わわされたひとびとである。
さて、その中でも何人かの人に注目してみてみよう。
まず、第二十五番歌の三条右大臣と第二七番歌の中納言兼輔から。
「名にし負はば逢坂山のさねかずら人に知られでくるよしもがな」 三条右大臣
「みかの原わきて流るる泉川いつみきとてか恋しかるらむ」 中納言兼輔
さねかずらは、つる性の植物で「五味子」とも言う。「小寝(さね=一緒に寝ること)」との掛詞になっている。
藤原良房の弟良門(よしかど)を祖父とする。良門にはふたりの子供がいた。利基と高藤である。高藤はこの三条右大臣定方の父親であり、利基は中納言兼輔のちちである野で、この二人は従兄弟である。
勧修寺というお寺がある。勧修寺は、 真言宗山階派大本山であり、醍醐天皇の勅願寺である。九〇〇年(昌泰三)天皇の生母藤原胤子追善のため創建された。開基は承俊律師である。
醍醐天皇の生母藤原胤子は、藤原高藤の娘であり、宇多天皇の女御になった。そして、胤子の父高藤は三位に昇進した。だが、宇多天皇は即位十年で醍醐天皇に譲位した。高藤は政治的野心のない人だったので、宇多天皇も穏やかにお過ごしになったに違いない。
話は少し遡るが、光孝天皇の跡を継いだ 宇多天皇は藤原氏の介入を嫌い、自身が政治を執ろうとした。正式に関白に就任することを求めた基経に対して、宇田天皇は関白ではなく「阿衡」という、中国にあった位を与えた。これに対して基経が仕事を停滞させる 阿衡の紛議を起こした。基経がいないと政治が回らなかったため、結局、宇多天皇は基経を関白に任命することになり、基経の権力はより強大なものとなった。
『権中納言兼輔卿集』には次のような歌がある。
三条の右大臣殿のまだ若くおはせし時、交野に狩りし給ひし時追ひてまうでて
「君が行く交野はるかに聞きしかど慕へば来ぬぬるものにぞありける」
急ぐことありて先立ちて帰るに、かの大臣(おとど)の水無瀨殿の花おもしろければ、付けて送る
「桜花匂ふを見つつ帰るにぱしづ心なきものにぞありける」
京に帰りたるに、むかのおとどの御返事
「立ちかへり花をぞわれは恨みこし人の心ののどけからねば」
業平たちの此処は牽制から疎外された愁いに満ちていたのに対して、春風駘蕩の気に満ちた穏やかな境地である。もとより、権勢のための戦いなど端から必要としない三条右大臣と中納言兼輔の周囲に、貫之などが集まったのだ。しかし、醍醐天皇が崩御されたのに伴い、彼らの周辺も穏やかではなくなる。
延長八年九月、みかど御病重くならせ給ひて、御位さらせ給はんとしける時よみ給へりける
「変わりなん世にはいかでかながらへむ思ひやれどもゆかぬ心を」
兼輔の中納言、これを聞きて和し侍りける
「秋ふかきいろかはるとも菊の花きみが齢の千代しとまらば
おなじ比よみ給へりける
「色かはるはぎの下葉のしたにのみ秋きうき物と露やおくらん」
かくてみかど九月二十九日かくれさせ給ひにけるをなげきて、中納言兼輔のもとにいひつかはし給へる
「人の世の思ひにかなふものならばわが身は君におくれましやは」
「はかなくて世にふるよりは山科の宮の草木とならましものを」
かへし
「山科の宮の草木と君ならばわれもしづくにぬるばかりなり」
醍醐天皇の崩御は二人にとって大きな衝撃を与えた。虚脱ぶりがうかがえるようなやりとりである。そして、貫之はこう詠んだ。
ある上達部(かんだちめ)(ここでは兼輔)の失せ給へる後、久しくかの殿に参らで参れるに、琴ども淋しくあはれに鳴りわたるに、前栽の惣卜ばかりぞ変わらずおもしろかりける。秋のもなかなり。風寒く吹きて、竹・松などのおもしろければ、詠みて上(兼輔夫人)に奉り入るる
「松もみな竹も別れをおもへばや涙の時雨降るここちする」
貫之は、その後過去の栄光を反芻するしかないほどの老境に沈んだのだった。
第四三番歌 権中納言敦忠
「あひ見ての後の心にくらぶればむかしはものを思はざりけり」
第三十八番歌の右近の項でも触れたが、藤原敦忠は第六十代醍醐天皇の皇女の雅子内親王に恋をした。しかし、身分が違いすぎ、叶わぬ恋であることはすぐに明らかになる。なにしろ、敦忠は美男で音楽の名手であるとはいえ、身分は最下位の従五位下であった。困ってしまった大人たちは、雅子内親王を伊勢神宮の斎宮(いわいのみや)に選んで、都から去らせた。
身分違いの恋はたいていの場合悲劇を招く。しかし、敦忠は恋に打ち込むエネルギーを仕事に注ぎ込んだ。従五位下だった敦忠は、仕事に打ち込みすぐに従四位下に昇進した。また蔵人頭に昇進する。さらに、左近衛権中将に進む。そして、とうとう押しも押されもせぬ権中納言に収まった。仕事に打ち込み過ぎた敦忠は、38歳の若さでこの世を去った。
身分違いの禁断の恋を諦め、己の持つ熱量を全て仕事に向けた男の生き方はとても爽やかだ。でも、このような場合、女性のほうはどうするのだろうか。つまり、身分違いの男に恋した女の場合である。まあ、たぶん自分の思いを表に出すことはなく、静かに耐えてそれなりに自分の幸せを見つけようとするのだろうと予想するが、なにしろ女ではない私には全く分からない。
延長八年六月清涼殿の大落雷で醍醐天皇の御前に居並んだ公卿数人が死傷したことで、醍醐天皇は病床に伏すことになり、わずか八歳の朱雀天皇に譲位した。朱雀天皇の伯父の「貞親公」(藤原忠平、基経の四男)が摂政として後事を委ねられた。長男の実頼も、次男の師輔もやがて重きを成すのに対して、時平の次男顕忠と三男敦忠は官位が低かった。
敦忠は、在原業平の孫の在原棟梁(むねはり、むねやな、とも)の娘を母とした。つまり、美貌の持ち主であった。源博雅(ひろまさ)は琵琶の名手だったが、敦忠の姉妹を母とする。敦忠は管弦にも優れていて、敦忠が生きていたら、博雅はこれほどには大事にされなかっただろうと言われていた。
自分が短命であることを予測していた藤原敦忠は、妻の北の方(藤原玄上の娘)に、「われは命みじかき族(ぞう)なり」と言っていた。そして、「自分の死後、君は藤原文範と結婚をするだろう」と伝えていた。北の方は驚いたが、敦忠の死後北の方は本当に藤原文範と結婚した。敦忠は北の方のことをとても愛していたのだ。愛する妻のこと思えば、自分の死後他の男性と結婚して幸せに暮らしてほしいと。
美貌と才能に恵まれていたこの男は「色好み」だった。敦忠の妻は右近という女性で、鷹匠であった右近少将・藤原季縄(すえただ)の娘(一説には妹)。その官名から「右近」と呼ばれている。醍醐天皇の中宮穏子(おんし)に仕えた女房である。その右近とのやりとりは『大和物語』の八十一段から八十三段まで続く。
「忘れじと頼めし人はありと聞く言ひし言の葉いづちいにけむ」 八十一段
「栗駒(くりこま)の山に朝たつ雉よりもかりにあはじと思ひしものを」
八十二段
「思ふ人雨と降りくるものならばわがもる床はかへさざらまし」 八十三段
そして、八十四段には百人一首にも入っている次の歌が詠まれた。
第三十八番歌
「忘らるる身をば思はずちかひてし人のいちのちの惜しくもあるかな」
参議源等の娘との間に、助信という子供がいた。その助信の母が亡くなった時の歌は以下の通りである。
助信が母、みまかりてのち、かの家に敦忠朝臣のまかり通ひけるに、桜の花の散りける折にまかりて、木のもとに侍りければ、家の人の言ひ出だしける よみ人しらず
「今よりは風にまかせむ桜花散るこのもとに君とまりけり」
「風しにも何にまかせん桜花散る木(こ)のもとに君とまりけり」敦忠朝臣『後撰和歌集』春下
美貌と才能に恵まれた色男のもうひとつの悲恋は、醍醐天皇の娘雅子(まさこ、あるいはがし)内親王との間のものだ。
斎宮と代を経てきこえかはしたまけるはじめのにや
「したにのみながれわたれは冬河のこほれる水と我となりけり」
かへし
「心から人やりならぬ水ならば流れわたらんこともことはり」
これも同じ中納言(敦忠)、斎宮のみこを年ごろよばひたてまつりたまうて、今日明日あひなむとしけるほどに伊勢の斎宮の御占(みうら)にあひたまひにけり。いふかひなく口をしと男おもひたまうけり。さてよみたまうける。
「伊勢の海千尋の濱にひろふともいまはかひなくおもほゆるかな」
『大和物語』第九十三段
心変わりしたのではなく、卜占で斎宮になることが決まったと合っては、その理不尽に怒りや悲しみのやり場がないだろう。
斎宮にゐたまうてのちに
「いけごろし身をまかせつつ契こし昔を人はいかが忘るる」
かへし
「ちぎりこし事忘れたるものなば問ふにつけても忘れざらまし」
しかし、運命は常に勝者に微笑む。雅子内親王は敦忠とは結ばれることはなく、藤原師輔に嫁ぐことになる。勤子内親王(きんし、あるいはいそこ)は醍醐天皇の五女で師輔に史上初の臣籍降嫁になった。勤子内親王が没した後、雅子内親王は師輔に降嫁する。敦忠は、内親王への思いを秘めながら、身を引くしかなかった。
ところで、「あひみての」の歌はこの雅子内親王に贈った歌だったのだろうか。それが違うのだ。
みくしげどのの別当に、しのびてかよふに、親聞きつけて制すと聞きて
「いかにしてかく思ふてふことをだに人づてならで君にかたらむ」
『後撰集』九六一
「あひみてののちの心にくらぶればむかしはものも思わざりけり」
『拾遺集』七一〇
「御匣(みくしげ)殿の別当」とは藤原忠平の娘・貴子のことである。夭折した保明親王の女御だった人だ。貴子の父・藤原忠平は二人の恋を邪魔した。「命みじかき族」に生まれた権中納言敦忠の寂寥がこめられている。